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【マラソン】彼女はもう一度走りたかった~先天性内反足で足首の自由を失った女性がフルマラソンに挑戦した話(その1)



川見店主は、その人を抱きしめた。
そして、両腕をつかんで体を離すと、その人の顔を見つめて言った。

「よくがんばりましたね」

その人はこたえた。

「ありがとうございます。無事に帰ってきました」

川見店主は、その人を、もう一度、強く抱きしめた。


彼女が背負ったもの

お腹の子は、中から強く、何度も何度も、蹴ってきた。
お母さんは、元気な子が生まれてくるだろうと思った。

町の助産院で、彼女は生まれた。
彼女をとりあげた助産師さんは、彼女の足を見て、声をあげそうになった。
その足が誰にも見えないように、小さな体を、そっとタオルで包みこんだ。
そして、お母さんに優しく声をかけた。

「元気な女の子ですよ」

お母さんは、生まれたばかりの小さな命を愛おしく見つめた。

2日後、彼女は大学病院へと運ばれた。
彼女の右足は、足首から先が大きく内側に曲がっていた。
足の親指が、脛(すね)にくっついていた。
精密検査が必要だった。
冷たく大きな検査装置の中に、ひとり寝かされた。
お父さんは、胸を締めつけられながら、ガラス越しに小さな命を見守った。

「先天性内反足」

それが、彼女がこれからの長い人生に背負っていくことになる病名だった。
医師は言った。

「でも、この子は大丈夫です。こんな言い方は間違っているかもしれませんが、この子の足には、必要な″部品″が全部そろっています。だから、大丈夫です」


走ることが好きだった

生後2か月の時と、4歳の時と、彼女は大きな手術を2回受けた。
ある日、おじいちゃんが病院へ見舞いに行った。
可愛い孫の姿は病室にはなかった。
おじいちゃんが彼女の居場所を尋ねると、看護師さんが笑ってこたえた。

「廊下にキズが見えますよね?Eちゃんが足に装具を付けたまま元気に歩きまわるので、キズがつくのです。あのキズをたどっていけば、Eちゃんに会えますよ」

彼女の右足は、足先から太ももまでを装具で固定された。
でも、彼女は不自由を感じることはなかった。
自分にとっては、生まれながらの自分の足だった。
幼稚園にあがるまでは、装具を付けたままで周りの友達と同じように、いや、それ以上に元気に遊びまわった。
お母さんも、決して彼女を特別扱いしなかった。

彼女は体を動かすことが好きだった。
特に、走ることが大好きだった。
小学校6年間は、ずっと運動会のリレーメンバーに選ばれた。
大阪の代表選手として、陸上競技の特別な大会に出場したこともあった。
中学校では陸上部がなかったので、ハンドボール部に入部した。
右足の足首は動かなかったけれど、左足を頼りに動き、ジャンプし、誰よりも強烈なシュートを放った。


彼女が夢見たもの

高校に入ると、彼女は念願の陸上部に入部した。
ハードル選手になることを夢見た。

しかし、彼女の体は、成長とともに左右のバランスを大きく欠くようになっていた。
左脚に比べ、右脚は筋肉が少なく2まわりほども細い。
左足に比べ、右足のサイズは2cmほども小さい。
無意識に右足をかばう動きが、体に負担をかけた。
長距離を走ったり練習が厳しくなると、股関節や腰に激しい痛みを感じるようになった。
時には、針を打ちまくって痛みを散らし、試合に出場したこともあった。

走りつづけることは難しかった。
危険ですらあった。
ハードル選手の夢はあきらめざるを得なかった。
彼女は、円盤投げの選手となり、新しい挑戦をはじめた。
大好きな陸上競技だけは、つづけたかった。


もう一度、走りたい

社会人になり、結婚し、子供を産んだ。
今は仕事もしている。
何をするにも、足のことを言い訳にしたくない。
ただ、体にはどうしても無理が生じてしまう。
股関節や腰の痛みには、いつも苦しんでいる。

彼女だけの歩き方がある。
人の視線を感じるのはいつものことだ。
かといって、慣れるものではない。
すれ違いざまに振り向かれると、今でも心が疼(うず)く。
でも、そんなことに負けていられない。
そう思って、生きてきた。

1年ほど前。
職場の同僚にランニングをすすめられた。

「いつか、フルマラソンに一緒に出場しよう」

悪い冗談かと思った。
一体何を言ってるの?
私の足のこと知ってるでしょ?
走れるわけないじゃない!
断わろうと思った。
でも、心の奥にひっかかるものがあった。
そりゃあ、走れるものなら、もう一度走ってみたい。
けれど、また自分の「右足」と向き合うことになる―ー。

結局、「どうせ当選するわけがない」と、同僚とともに3つのマラソン大会に応募した。
ジムに通って、ランニングマシンの上を走りはじめてみた。
動くベルトの上を走るのは難しかった。
着地でバランスを崩し倒れそうになる。
腰痛も起こってきた。
マシンの上を走るのは、怖くなってやめた。

応募したマラソン大会の当落通知が届きはじめた。
1つめは落選した。
2つめも落選だった。
内心、ホッとしていた。

2018年10月。
3つめに届いた当落通知。
京都マラソン、当選だった。
彼女は困惑した。
42.195kmを走る自分なんて、まったく想像できない。
なんとかしなければ。
ランニングシューズのことも、ちゃんと考えなければ。

ずっと気になっている店があった。
走りはじめてから、自分なりに色々調べていた。
この店に行くしかないな。
店のホームページを開く。
「オリンピアサンワーズ」
電話をかける。

彼女がスタートラインに立つまで、あと4か月。

つづきます↓
第2話「彼女は決意の一歩を踏み出した」

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コメント

  1. はじめまして。
    私も先天性内反足で、小さい頃から左右の足のサイズの違いやバランスの悪さで足が痛くなり、マラソンは大嫌いでした。大好きなバスケも中学生あたりから、どうしても足がついていかず、やめてしまいました。紹介されている方の苦しみがすごくよくわかります。
    そんな私も登山をきっかけに来週トレラン大会に出場します。
    このブログを見て勇気をもらいました。頑張ります。

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