【ハリマヤ】無名の母たちがつくったハリマヤのシューズ~新潟県十日町市からのおたより
彼女たちこそが
一枚の古い写真。木造の建物を背景に、きちんと整列した人たちが写る。
そのほとんどが、質素な作業服を身にまとった女性たちだ。
彼女たちは、きっと、市井に生きる無名の庶民の一人ひとりであったにちがいない。
しかし、ある時代において、多くの陸上競技選手やランナーたちを支えていたのは、まさしく彼女たちだったのだ。
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「いだてん」の足を支えた「ハリマヤ」
今年(2019)1月から毎週日曜日に放送されているNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」。主人公は、日本のマラソンを創った金栗四三さんです。金栗四三 (1891-1983) |
金栗さんは、1912年のストックホルム五輪に、日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場、「播磨屋(ハリマヤ)」という足袋屋の足袋を履いて走りました。
しかし、北欧の堅い石畳のコースに足袋は弱く、金栗さんは膝を痛め、また日射病に倒れてレースを途中棄権するという悔しい結果に終わりました。
この失敗を糧に、金栗さんは、播磨屋の店主・黒坂辛作さんと、マラソンを走る足袋を共同開発し、遂には、改良に改良を重ねて進化したマラソン足袋、いわゆる「金栗足袋」が誕生しました。そして、「金栗足袋」を履いた日本の歴代ランナーたちが、五輪や世界大会のマラソンで優勝する時代が1950年頃までつづきました。
ハリマヤ創業者・黒坂辛作 (1880-?) |
播磨屋は戦後にはシューズメーカー「ハリマヤ」へと発展。
足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。
また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。
残念ながら、ハリマヤは1990年頃に倒産しました。
しかし、私たちはハリマヤを忘れてはいません。
オリンピアサンワーズには、今なおハリマヤを愛する人たちから、たくさんの「声」が届きます。そして、みなさんの記憶から、ハリマヤの歴史が掘り起こされています。
みなさんの声↓
ハリマヤ第二の故郷
新潟県十日町市から
さて。先日も、当店のFB(Facebook)に1枚の画像とともにこんなメッセージが届きました。
突然失礼します。なんと!
私は旧ハリマヤシューズの工場(新潟県十日町市)近くに住むものです。母が工場でシューズを作ってました。
「金栗・ハリマヤ」でネット検索していたらオリンピアサンワーズさんに行き着きました。
昨夜、知り合いの飲食店で久々にハリマヤの運動靴(新品未使用)を見て盛り上がりました。何て名前の靴だろうと調べようとしましたがわかりません。もしお解りでしたらお教え下さい。
お母様がハリマヤのシューズ工場で働いておられたと!
しかもこの写真からは、なにやら居酒屋でシューズ談義に花を咲かせる楽し気な雰囲気が、そこはかとなく伝わってくるではないですか!
メッセージを送ってくださったご本人のFBにも、この時の模様が投稿されてるようなので、拝見しました↓
うわー、おもしろいエピソードいっぱい!
これはもう、ご本人さんにぜひともお話をうかがいたい!
つーわけで、伝説のシューズメーカー・ハリマヤの工場があったという、新潟県は十日町市(旧川西町仁田)在住の山田努さんにご登場いただきます!
山田努さん(51) 新潟県十日町市在住 広告代理店サンタクリエイト代表 |
現役のハリマヤシューズ
――山田さん、こんにちは。はじめまして。山田さん:はじめまして。
――メッセージありがとうございます。山田さんのFBも拝見いたしました。ハリマヤを肴(さかな)に一杯ひっかけながら、店のおやっさんも交えてのシューズ談義が、とても楽しそうですね!
さて、ご質問のハリマヤのシューズですが、手元にあるハリマヤの資料では、いつの、なんという名前のシューズなのかは、わかりませんでした。
山田さん:そのシューズですがこんなタグが付いていました。「サンプル」と記してあるため、試作品かも知れませんね。
シューズのタグ「NEW SAMPLE」の文字が |
――1980年代には、このような色の組み合わせのシューズが他メーカー(ナイキやアシックス)からもよく出ていた時期があります。その頃のものなのかなと思うのですが……。
川見店主にも聞いてみましょう。
このシューズのことわかりますか?
川見店主 オリンピアサンワーズ二代目 |
川見店主:あのね、昔は、「品番」も「名前」もないシューズというのがあったのです。
――え?名前のない商品があったのですか?
川見店主:例えば、ある選手のために「こんなシューズを作ってほしい」とハリマヤに頼むと、靴職人さんが望みどおりのシューズを作ってくれました。そのシューズにはまだ「名前」がありません。そうやって、「選手のために」と作った名のないシューズや試作品が、いずれ商品化されていったのです。
――ハリマヤは、そこまでのことをやってくれるメーカーだったのですね。つくづくハリマヤがなくなって残念です。
山田さん:ハリマヤが倒産して間もない頃には、県外からハリマヤのシューズを探し来た方もいらっしゃいました。ちなみに私の父は、今でもハリマヤの靴を履いていますよ!
これです↓
山田さんのお父さんのハリマヤシューズ |
――うわー!今もなお現役でハリマヤを使用されてるのですか!
山田さん:父は、このハリマヤシューズを、パターゴルフの時に履いてます(笑)。
――うらやましい!優に30年以上は前のシューズだと思いますが、まだ履けるってことは、ハリマヤの技術と品質の高さを証明していますね!
ハリマヤのシューズ工場跡地は今
――山田さんがお住まいの新潟県十日町市川西地域(旧川西町仁田)に、昔、ハリマヤのシューズ工場があったという話ですが。山田さん:この航空写真の右下の空き地が工場跡です。撮影は昨年7月です。
夏の新潟県十日町市 (山田努さん撮影) |
――うわ、素晴らしいお写真ですね!航空写真とのことですが、山田さんが空を飛んで撮影されたのですか?
山田さん:ドローンで撮影してます。
――どろーーーん!
山田さん:仕事で商業写真の撮影しているんですよ。
――こんなに自然に囲まれたところにハリマヤの工場があったのですね。ちなみに、写真の中央左に400mトラックのようなものが見えます……あ、プールもありますよね?学校っぽいですね。
山田さん:それは小学校で、私の母校なんですよ。トラックは200mです。緑の水田は魚沼産こしひかりの田んぼ。奥に流れているのは信濃川です。
次の写真は、今年の元旦の風景です。
この写真では見えませんが、左奥が工場跡になります。
冬の新潟県十日町市 (山田努さん撮影) |
――わーーーーーっ!これも素晴らしいお写真ですね!すごい雪景色!大阪に住んでいると滅多に雪を見ることがありません。感動です。
中学校の校舎が工場になった
――山田さんがFBに紹介されてる、ハリマヤの工場で働いておられたお母様とのエピソードがおもしろくて、おもしろくて。ここでも引用させてもらいますと↓
工場では、近所の母ちゃんたちが大勢働いていました。私の母もです。母とハリマヤ従業員の送迎バスに乗って保育園に通った記憶もあります。当時は結構人気のシューズメーカーだったようです。お母様、ハリマヤの靴を「みんな燃やした」って、もったいない(笑)。
高校の頃、母から仕入れたB品のハリマヤシューズを陸上部の友人に売ったりもしました。ちょっとした小遣い稼ぎになりました(笑)
倒産したときに、母が大きな段ボール箱にいっぱのハリマヤシューズをもらってきました。様々なスポーツシューズや審判シューズなどもありました。退職金代わりだったようです。
「まだハリマヤの靴あるか?」と母に聞いたら「みんな燃やした」って。残念。
山田さん:燃やされなかった靴も、家に何足かありますよ。
ハリマヤのシューズたち (山田努さん撮影) |
――袋の「ハリマヤの金栗マラソンシューズ」の文字に時代を感じます。それに保存状態がすごくイイですね!
山田さん:赤と紺の二本ラインがニューカナグリでしょうか?
ハリマヤシューズの葉っぱが開いたような縫製 (山田努さん撮影) |
――あ!この2枚の葉が開いたような縫製は、まさしくハリマヤですね!
葉っぱみたいな縫製の話↓
山田さん:うちの母は踵あたりの縫製を担当していたそうです。ハリマヤは海外での生産もしたようですが、その製品はかなり粗悪だったと言ってました。
次に紹介するのは、50年ほど前(S42~44)の写真です。
この中学校が、後にハリマヤ橘工場(中魚沼郡川西町の橘工場。「橘」は小学校の学校区名)となります。後ろに見えている右側の山が、お酒で有名な「八海山」です。
ハリマヤ工場になる前の中学校校舎 (木村喜郎さん撮影) |
――へーー!この中学校がハリマヤの工場に!
山田さん:工場内の写真もありますよ。
ハリマヤ工場で作業を行う女性たち (山田努さんご提供) |
――わーーーーーっ!これは貴重な写真ですね!
本当に、学校の校舎が工場になっていたのがよくわかります!
それに、山田様のお母様をはじめ、これだけ多くの女性たちがハリマヤを支えていたのですね。すっごい!驚きと感動の連続です!
山田さん:喜んでいただけて幸いです。大阪からはちょっと遠いですが、ぜひ十日町市にもお越しください。ハリマヤ関係の人を集めることくらいは出来るかも知れません。少なくとも工場跡地と雪景色はご覧いただけますよ。
――ぜひ行ってみたいです。その際はお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします!
山田さん:私も大阪に行く機会があれば、ハリマヤのシューズをおみやげにオリンピアサンワーズさんにうかがいたいと思います。
――お会いできる日を楽しみにしております。撮影された素晴らしい写真の数々、またハリマヤの歴史を物語る貴重な写真をご提供いただき、ありがとうございました!
ハリマヤを支えた無名の母たち |
(おわりです)
私の実家はハリマヤの靴底を作る工場でした。
返信削除父から出来上がった赤いハリマヤのシューズを貰って、長年履いていましたが、軽くて足にフィットして、非常に履きやすかったです。