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2月, 2019の投稿を表示しています

【ハリマヤ】いだてん金栗四三とハリマヤ黒坂辛作、その情熱の襷(たすき)を。~ハリマヤサイトに新ネタを追加

『月刊陸上競技』1983年7月号に掲載されたハリマヤの広告 金栗四三の「情熱」 みなさん、こんにちは。 毎週日曜日の夜8時からは、なにがなんでもテレビの前に座って、NHK大河ドラマ「 いだてん~東京オリムピック噺 」を見ています。 先週の< 第7話「おかしな二人」 >で、中村勘九郎さん演じる主人公の 金栗四三 さんが、オリンピック開催地のスウェーデンに向かう準備として、 礼服一式 を新調したり テーブルマナー を学んだりする、といった話がありました。 ドラマ上の脚色はありますが、本当にあった話だそうです。 また、今では到底に考えられませんが、国から渡航費などの援助はまったく無く、「 自腹 」でオリンピックに参加した、というのも本当の話だそうです。マジか! だって、この本に書いてたもん↓ 『 走れ25万キロ~マラソンの父金栗四三伝<復刻版> 』 「走れ25万キロ~マラソンの父 金栗四三伝」復刻版 長谷川孝道著 (熊本日日新聞) 「 自腹 」つながりで、話をもうひとつ。 この本 『走れ25万キロ~マラソンの父・金栗四三伝』 は、1961年に出版された名著ですが、長い間ずーっと絶版になってました。 しかし、著者の 長谷川孝道 さんは、金栗さんの偉業を後世に伝え残すために、なんとこの <復刻版> を2013年に 自費出版 されたんですって!マジですか! 長谷川さんが 執念 で自費出版するに至った経緯の詳しくは、娘さんでピアニストの樹原涼子さんがブログに書かれてます。感動しました↓ 金栗さんの「 情熱 」が、日本のマラソンをつくった。 長谷川さんの「 情熱 」が、金栗さんの偉業を残した。 「 情熱 」の襷(たすき)は、受け継がれる。 どうか、この本を手にしてほしい。 あなたの胸にも、きっと、「 情熱 」の火種が灯ることだろう。 黒坂辛作の「情熱」 さて、ドラマ「いだてん」でピエール瀧さん演じる「 播磨屋足袋店 」の 黒坂辛作 さんは、金栗四三さんとともに「 マラソン足袋 」を開発した人物です。 黒坂さんもまた、金栗さんの「 情熱 」に「 情熱 」でこたえた人でした。 黒坂辛作 ハリマヤ創業者 黒坂さんの「 情熱 」が生み出しだ「 カナグリ足袋 」や「 カナグリシューズ 」は

【ハリマヤ】あの日の少年は今も走りつづけている。~A先生のハリマヤのカタログの話。

1970年代のハリマヤのカタログ 「あの日が、僕のランナーとしてのはじまりです」 そう言って、A先生は、古びた二つ折りの紙をカバンから取り出した。 見開きB4サイズのカタログ。 表紙には「 ハリマヤのカナグリマラソンシューズ 」の文字。 中を開くと、見たこともないシューズの写真が並んでいる。 印刷はところどころが剥げている。 端々はちぎれて破損している。 継ぎはぎをしたセロテープも劣化して変色し、このカタログが越してきた年月を物語っていた。 ◆ 少年は日が暮れるまで走りつづけた。 少年は、走ることが好きだった。 体は大きくはなかったが、足には自信があった。 中学生になると陸上部に入部した。 毎日、日が暮れるまで走りつづけた。 ある日、少年の姿を見ていた先輩が、こんなことを教えてくれた。 「それだけがんばってるんだから、そろそろ本格的なランニングシューズで走った方がいい。大阪の天王寺区に陸上競技の専門店がある。その店に行けば、キミに合ったランニングシューズを選んでくれるよ」 ただし、とその先輩は付け加えた。 「その店のおばちゃんはめちゃめちゃコワいぞ。店に入るときに挨拶をしないと中に入れてくれないぞ。挨拶するのを忘れて、玄関で帰らされたヤツもいるんだ。礼儀正しく、失礼のないようにするんだぞ」 先輩は、その店までの地図と紹介状を書いてくれた。 ◆ 「アンタにはそのクツやな」 少年は、電車を乗り継いで店に向かった。 国鉄大阪環状線の桃谷駅で下車した。 先輩からもらった地図と紹介状を握りしめていた。 見慣れぬ町を、緊張しながら歩いた。 しばらくすると、地図に書いてあるとおりの場所にたどりついた。 建物の1階にあるその店には、看板がなかった。 どこから入っていいのかもわからなかった。 およそ、スポーツ店には見えなかった。 とにかく、目の前の引き戸を思い切って開けてみた。 1960年頃から1991年まで営業した桃谷駅近くの店舗 「こんにちは!失礼します!」 大きな声で挨拶をした。 店にたどり着くまでの道中で、頭の中で何回も練習したとおり、深々とお辞儀をするのも忘れなかった。 狭い店の真ん中には古い木の机が置いてあり、その向こうに、メガネをかけたおばちゃんがひと

【ハリマヤ】いだてん金栗四三と播磨屋黒坂辛作が生み出した金栗足袋。発祥の地の石碑は何を物語っているのか?

石碑「金栗足袋発祥之地 黒坂辛作」 「金栗足袋発祥の地」その石碑はどこに? 2019年NHK大河ドラマ「 いだてん~東京オリムピック噺 」。  主人公は「日本マラソンの父」 金栗四三 さんです。 「日本マラソンの父」金栗四三 金栗さんは、日本人初のオリンピック選手として、1912年ストックホルム五輪のマラソンに出場、足袋を履いて走りました。 その足袋を作ったのが、「 播磨屋足袋店 」の店主・ 黒坂辛作 さんでした。 ハリマヤ創業者・黒坂辛作 その後、黒坂さんと金栗さんはマラソンを走る足袋を共同開発、1919年頃には進化したマラソン足袋「 金栗足袋 」が誕生しました。 以来、1950年頃までは、日本の歴代ランナーたちが「金栗足袋」を履いて五輪や世界大会のマラソンを走り活躍する時代がつづきました。 (左上)1936年ベルリン五輪マラソン優勝の孫選手が履いた金栗足袋。(右下)1951年ボストンマラソン優勝の田中選手が履いた金栗足袋。写真は1989年度版ハリマヤカタログから。 播磨屋足袋店は、戦後にはシューズメーカー「 ハリマヤ 」に発展。 足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。 また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。 ハリマヤをより詳しく↓ しかし、1990年頃にハリマヤは倒産、忽然(こつぜん)と姿を消しました。 伝説となった「ハリマヤ」。 今も、 東京の「 ある場所」 に、「金栗足袋」を生みだした黒坂さんの偉業をこの世にとどめる記念の 石碑 が残っていると聞きます。 そのメールの送り主は? 2018年1月某日。 川見店主に一通のメールが届きました。 川見さん、はじめまして。 私は文京区大塚に住む黒坂辛作の曾孫にあたる者です。 曾お祖父さんの事を新聞でお話してくださり、とても感謝しています。 文京区役所で金栗四三さんや播磨屋足袋店の事をもっと広めていこうと言うことで、家から写真と四三さんの書いた色紙などを展示資料としてお貸ししました。 関西にも行くことがあるので、その時は是非オリンピアサンワーズに寄らせていただきたい

【マラソン】大阪国際女子マラソンで奇跡の初出場を果たしたランナーと、大阪ハーフを激走した人たちの話。

2019大阪国際女子マラソン記念タオル ( 前回 のつづきです) 1月27日(日)に開催された 大阪国際女子マラソン と、 大阪ハーフマラソン 。 両レースは12時10分に同時スタート。 もちろん、今年も川見店主とサンワーズ応援団は、店の前でレースを観戦・応援しました。 それでは、力走されたみなさんの写真と記録をご紹介しましょー! 今大会もいいお天気でした! レース前のオリンピアサンワーズ前 大阪国際女子マラソン 走れない日々からわずか4か月で奇跡の初出場を果たす 女子マラソンには、マキコさんが初出場されました。 マキコさんがランニングをはじめたのは 9年前 。 きっかけは、子供と一緒に軽い気持ちで参加した10kmの市民マラソン。 これを56分で走れたことに自分でもビックリ。 ランニングに目覚めたマキコさん。 翌年には初フルマラソンを 4時間33分 で完走。 それからは毎年タイムを更新し、2017年 大阪マラソン では 3時間15分 の自己ベスト記録をマーク。 いよいよ、次に目指すは大阪国際女子マラソン出場! のはずが、2年ほど前から苦しめられていた シンスプリント が悪化し、満足に走れない日々がつづくように。 何か解決方法はないかと、マキコさんが「藁にもすがる気持ちで」オリンピアサンワーズにはじめてご来店されたのは、昨年(2018)10月。 復活を目指すマキコさんに、川見店主は、レース用とトレーニング用との計2足のランニングシューズを、そして、シンスプリントを予防するために、もう一度足を鍛えなおす足袋シューズ「 HGS (ひとえぐいぐいすぺしゃる) 」を、オーダーメイドインシールでフィッティングしました。 3か月前にフィッティングした2足のランニングシューズと、足袋シューズ。 HGS(ひとえぐいぐいすぺしゃる)を詳しく↓ 3足のシューズを手に入れたマキコさんは、徐々に走れるように。 そして、フィッティングからわずか2か月後の12月2日、 大阪ロードレース30km を 2時間08分 で大激走され奇跡の大復活、マキコさんは大阪国際女子マラソンへの出場資格を獲得されたのでした! で、初ご来店からほぼ4カ月が経った今大会。 初出場のマキコさんは、 3時間07分 でフィニ