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10月, 2020の投稿を表示しています

太陽はふたたび昇っていく~オリンピアサンワーズ物語(第12回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第12回) ◆◇◆ サンワーズ【第二章】 オリンピアサンワーズの創業者・上田喜代子(うえだ・きよこ)は「太陽」が好きでした。 自らが輝きながら、他のすべてをも輝かせる太陽。 時に優しく温かく、時に灼熱の厳しさで皆を励ます太陽。 「 誰もが太陽のように輝くことができる 」 そんな想いを込めて、上田はオリンピアサンワーズのマークを「太陽」にしました。 多くの人にとっては、上田こそが太陽のような存在でした。 上田という大きな太陽は没しました。 しかし、オリンピアサンワーズには、また新しい太陽が昇りはじめました。  上田が亡くなった、その1週間後の1986年3月1日。 川見あつこは、オリンピアサンワーズの二代目として店を正式に継ぎました。 上田は生前、ある人に、こんな風に言っていたそうです。 「 川見で、オリンピアサンワーズの【第二章】やな 」 ◆◇◆ 希望を。太陽を。 私たちは、今、誰もが経験したことのない困難な時代を生きています。 1964年東京五輪の開催は、新しい日本の発展を象徴する出来事でした。 2020年東京五輪の延期は、人類の危機を象徴する出来事になりました。 しかし、雨の日も、雲を突き抜ければ、いつもそこに太陽は昇っています。 私たちも、いつも胸の中に、「希望」という太陽を昇らせたいと思います。   そして、この時代を乗り越え、もう一度オリンピックを迎えることができた時、私たちは、オリンピックが持つ本来の意義を、今一度深く実感できるのではないでしょうか。 上田のおばちゃんが築いたオリンピアサンワーズ【第一章】、その歴史をご紹介する投稿は、今回で終了です。 二代目店主・川見あつこの【第二章】の物語は、また別の機会に。 最後までお読みいただきありがとうございました。 ◆◇◆ ・1964東京五輪の記念品 1964年東京五輪の記念品。これはベルトのバックルのようです。中央の五輪マークが誇らしい。背景の葉っぱにまぎれて「NRR」という文字が浮かんでいるのがわかるでしょうか?おそらく「日本陸上競技連盟(Nihon Rikujyokyogi Renmei)」の略だと思われます。 ・太陽マークの商標登録証 昭和39年に商標登録したオリンピアサンワーズの初代太陽

彼女は創業者の心を追い求めていくと決めた~オリンピアサンワーズ物語(第11回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第11回) ◆◇◆ 「あなた、継いでくださる?」 1986年2月22日。 オリンピアサンワーズの創業者・上田喜代子(うえだ・きよこ)はこの世を去りました。 享年62歳。 「 私、がんばってるからね…… 」 というのが、上田の最期の言葉だったそうです。 さて。 川見には、上田亡き後のオリンピアサンワーズを継ごうという考えは、まったくありませんでした。 川見の目標は、あくまでも「よりよい教師となって教育現場に戻ること」でした。 上田の葬儀が終わってからのこと。 川見は上田の母に呼ばれました。 上田の母は、明治生まれの気骨のある女性。 娘の死を毅然と受け入れ、着物姿で座る上田の母は、ニコニコしながら川見に話しはじめました。 上田母 :川見さん、そこに座ってちょうだい。 川見  :は、はい(正座をする)。 上田母 :川見さん、あなた、喜代子の心を継いでくださる? 川見  :ええっ!滅相もないです!私がおばさんの店を継ぐなんて恐れ多いです。 上田母 :あらそう……川見さんにとって、喜代子はどんな存在なの? 川見  :私が一生かかって追い求めていく存在です。 上田母 :あらそう……じゃあ、それを喜代子のお店でやればいいじゃない(ニコニコ)。 川見  :えぇぇーー……。 ◆ 約束の半年後 これは大変なことになったと思った川見は、上田と親しかった人たちに連絡を入れました。 そして、皆が店に集まっての緊急会議が開かれました。 全員の意見は一致しました。 「 みんなが育ててもらった店を残したい 」 「 上田のおばさんの心を残したい 」 話し合いは、次の一点に絞られました。 「 じゃあ、誰が? 」 この時、定職に就いていなかったのは川見だけです。 皆の視線は、川見に向けられました。 沈黙の後、誰かが口を開きました。 誰か :じゃあ、川見さんがお店を継げばいい。 川見 :そんなの無理です!私なんかが継いだら、お店はつぶれます! 誰か :それは、誰が継いでも一緒やから。 川見 :そ、そんなぁ…… 誰か :とにかく川見さんが半年やってみて、その時に、またみんなで集まって考えよう。 こうして、川見は、オリンピアサンワーズの二代目店主(仮)となりました。 そして、なんとか店はつぶれ

太陽は沈もうとしていた~オリンピアサンワーズ物語(第10回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第10回) ◆◇◆ 私の「弟子」やから 上田は病床にいても、相変わらず厳しくて、こわかった。 上田ほど<死>に遠い人はいない、と川見は思っていた。 「 あのおばさんには<死>の方が恐れて寄りつかないだろう 」 しかし、実際の上田の病状は徐々に悪化していた。 医者も家族も、そう先は長くないと考えていた。 ある時から、上田は雇っていた家政婦をひどく叱りつけるようになった。 周囲の人々には、その理由がわからなかった。 病気による意識の衰えか、ただの病人のわがままだとして、取り合わなかった。 そのことを上田の家族が、川見に相談した。 川見は、こたえた。 「 おばさんは意味なく人を叱ったりしません。家政婦さんの人間性を見抜いたうえで、愛情で叱っておられるのだと思います 」 家族には、日々の家政婦の態度に思い当たるふしがあった。 その家政婦にはすぐに辞めてもらった。 また、ある時は。 病室の上田は家族とともに、病状について医師から説明を受けていた。 すると、上田は、何の脈絡もなく、ふいに川見を皆に紹介した。 「 この子は、私の『弟子』やから 」 川見は、上田の口からそんな言葉をはじめて聞いた。 他の人たちは、顔を見合わせて苦笑した。 付き添いの看護師が、気をまわしたつもりで言った。 「上田さん何を言ってるの。こんなに世話をしてくれてる人に対して『弟子』は失礼じゃないの」 しかし、川見だけはわかった。 上田の言葉は、自分に向けられていた。 しかも、上田は、笑われるのを承知で、ふたりの関係を周囲の人たちにも宣言したのだ。 そこに川見は上田の深い愛情を感じた。 入院から半年が過ぎた頃。 上田は川見に、自宅からテレビを運んでくるように頼んだ。 病室にテレビを運び、チャンネルを合わせた。 その日はマラソンの中継があった。 上田はベッドから身を起こすと、川見にそばに座るように言った。 レースがスタートした。 上田は、選手ひとりひとりのランニングフォームやレース展開について、解説をはじめた。 川見は、一言も聞き漏らすまいと、居住まいを正した。 上田の解説は、レースが終わるまでつづいた。 ふたりきりで、そんな時間を過ごすのは、はじめてだった。 それから約2週間後。 上田がこの世

彼女は恐れていた「その場所」に座った~オリンピアサンワーズ物語(第9回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第9回) ◆◇◆ 店主が座る「場所」 上田から店のカギを渡された川見は、その日のうちにファミリーレストランのパートを辞めた。 翌日、川見はひとりで店を開けた。 営業の間はずっと、川見は店の中で小さくなっていた。 上田の代わりの役目など、自分に果たせるわけがないと思っていた。 店の中央には、古い木製の事務机とスチール製の椅子があった。 そこが店主の場所だった。 川見は、恐れ多くてその場所には座れなかった。 小さな丸椅子を机の横につけて座り、できるだけ端の方で仕事をした。 はじめて鳴った電話の音に心臓が飛び出そうになった。 恐るおそる受話器を取ると、ある学校の先生だった。 「 あれ?いつものおばちゃんは? 」 「 すみません、おばさんは、ちょっと留守をしております 」 「 へー。ところで、あなた、どなた? 」 「 留守をあずかっている者です 」 「 そうか。槍(やり)を注文したいんやけど 」 「 すみません、どうやって注文を受けたらいいか、私わからなくて…… 」 「 それはやな、まずメーカーさんに電話して…… 」 こんな具合に、川見はお客さんから指示を受けながら仕事をすすめていくことになった。 上田が書いた店内の見取り図。この図では方角が、上は「西」、左は「南」にあたる。中央に書かれた「机」の場所で、上田はいつもたばこをふかして座っていた。 ◆ 「私の椅子に座りなさい!」 川見は毎朝、病院の上田を訪れ、仕事の報告をしてから出勤するようになった。 1か月ほどが経ったある日のこと。 ベッドに身を横たえていた上田は、ふいに川見に訊いた。 「 あんた、どこに座って仕事をしてるんや? 」 「 おばさんの机の横に、丸椅子を出して座っています 」 上田は激怒した。 身を起こして、叫ぶように言った。 「 私の椅子に座りなさい! 」 突然のことに、川見は狼狽(ろうばい)した。 上田は言葉を継いだ。 「 あんたがいつまでもそんなんやから、私は死なれへんのや! 」 川見には、その言葉の意味が理解できなかった。 呆然(ぼうぜん)とする川見に、上田はつづけた。 「 私に店をつづける使命が残っているのなら、とっくに退院できているはずや。いつまで、私をこんな状態で生かしておくんや!今

彼女は「次代」への「カギ」を渡された~オリンピアサンワーズ物語(第8回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第8回) ◆◇◆ 「誰にもおしえるな」 上田が重篤であるとの連絡を受けた川見だったが、入院先の病院がどこかは教えてもらえなかった。上田が、誰にも教えるなと言っているという。 川見は大きなショックを受けた。 胸をふさがれたような気持ちで、眠れぬ夜を過ごすことになった。 横になり目を閉じると、上田と過ごしたこの数か月が思い出された。 教員を辞め、パートタイムで働きながら上田の身の回りの世話をはじめた川見に対し、上田はとても厳しく接した。 時にはお客さんがいるその場で怒鳴られることもあった。 その厳しさと激しさは、周囲の人たちが「なぜ、そこまで叱る必要があるのか」と理解に苦しむほどだった。 しかし、一部の人と川見だけは「上田のおばさんは、何かを伝えようとしている」と感じていた。 「 もう、おばさんには会えないのだろうか? 」 いつ寝て、いつ起きたのか、そんな日々が1か月ほど過ぎた頃、ふたたび川見に連絡があった。 上田が川見を呼んでいるという。 ◆ 身も心もすべて 川見は、病室の扉を開けた瞬間、あっと驚くような光景を目にした。 重篤であるはずの上田が、ベッドの周りをゆらゆらと歩いているのだ。 上田は、まだ死ぬわけにはいかないという執念で、歩行練習をはじめていた。 川見の姿を見ると、上田は両手を広げて迎えた。 川見は呆然(ぼうぜん)と上田に吸い寄せられた。 上田は両手で川見の腕をつかむと、優しく引き寄せた。 川見は、はじめて、上田に触れた。 上田の声が、遠くから聞こえるように、耳元に響いた。 「 あんたのことが嫌いで厳しくしてたんやない。あれだけのことを言えたのは、あんたと私には『絆』があるからや 」 川見は、身も心もすべて、上田に包まれた気がした。 そして、その場に泣き崩れた。 上田は川見に、会わなかったこの1か月の近況を聞いた。 川見が日々の奮闘を報告すると、上田は、 「 そうか、がんばってきたんやな 」 とねぎらった。 川見が退室する時間になると、上田は川見に店のカギを渡して言った。 「 明日から、あんたが店開けとき 」 川見は、びっくりして言った。 「 え!?おばさん、私は店の開け方は知ってますけど、仕事のことは何もわかりません 」 あわてる川見に、上

なぜ彼女は教師を辞めて、パートの皿洗いをはじめたのか?~オリンピアサンワーズ物語(第7回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第7回) ◆◇◆ 教師からパートの皿洗いへ 18歳の誕生日に上田のおばちゃんと出会い、その人間性に魅了された川見は、その後の学生時代も、社会人になってからも、オリンピアサンワーズに足繁く通っては、学業や仕事や家庭での悩みを上田に相談していました。 川見にとって上田は、生きる勇気と人生の指針を与えてくれる、かけがえのない存在でした。 川見は大学卒業後に中学校の体育教員となりましたが、徐々に中学教育の在り方に疑問を持ちはじめました。 それを上田に相談すると 「 あんたがやりたい教育は小学校やな 」 とのこたえ。 そこで川見は、中学校での教員生活のかたわら、小学校の教員資格を2年がかりの通信教育で取得。結局、中学校を5年勤めた後、小学校教員へと転身しました。 「 教育こそ社会で最優先されなければならない 」 そんな理想に向かって猪突猛進する川見は、小学校でも市の教育委員会が讃嘆するほどのクラスを毎年つくりあげてみせました。 しかし、ある時、上田にこう言われました。 子供たちには学校以外の世界がある。子供には親があり、親もそれぞれの世界を背負っている。それを『世間』と呼ぶ。高い理想を掲げるのもいいが、その『世間』というものをあんたは知らなさすぎる。教師の身分を隠して、どこかでパートの皿洗いでもやってみなさい もっといい教師になりたい。ただその一心で、川見は、なんと上田の言葉どおりに、小学校を4年で退職してしまいました。 また、この頃、上田は体を悪くしていました。川見は上田の身の回りの世話をしたいと考え、自分はファミリーレストランのパートタイムで働きながら、上田の自宅と店への送り迎えを車で行い、店の営業も少しばかり手伝うようになりました。 パートの仕事では、教育現場とは違った、社会の厳しい現実をまざまざと見せつけられました。 当時、川見はすでに三人の子供を育てるシングルマザー。収入は激減し、子供たちの明日の食事代もままならないほどに家計はひっ迫しました。 でも川見は、 「 この経験が、私をいい教師にしてくれるなら 」 と歯を食いしばって生きていました。 そんな生活が9か月ほど経ったある日、川見に連絡が入りました。 「 上田のおばちゃんが、もうあぶない 」 ◆◇

その日、彼女は人生が変わる運命的な出会いをした~オリンピアサンワーズ物語(第6回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第6回) ◆◇◆ その日が「4月25日」だったことを、彼女は一生忘れないだろう。 ◆ 彼女は女子高校に進学した。 やりたいことは何もなかった。 部活動も考えていなかった。 陸上部に素敵な上級生がいた。 すらっと高い身長、小顔にショートカットが似合う優等生。 女子校のヒロイン的な存在で、下級生の誰もが憧れをもっていた。 そのヒロインが、彼女を陸上部に勧誘しに教室へとやってきた。 同級生たちは、羨望の眼差しを彼女に向けた。 彼女は悪い気はしなかったので、すすめられるままに陸上部に入部した。 彼女は相変わらず「ぼんやり」していた。 部活動もそれほど熱心ではなかった。 合宿に行っても体調を崩して寝込んでいるような有様だった。 専門種目にしていた走り高跳びでは何の結果も残せなかった。 顧問の先生には「種目を短距離に替えなければクラブを辞めさせる」と叱られた。 こうして彼女は短距離走に転向。 高2の秋、大阪府下の私学大会で200mに出場すると意外と健闘し予選突破、決勝では4位に入賞した。 しかし、表彰台には上れなかった。 彼女はふと思い出した。 「 中学生の時は、先生に連れて行かれた試合で3位になり、私はあの表彰台に上ったのだ 」 自分のいない表彰台を見つめる彼女の胸に、はじめて「悔しい」という感情が芽生えた。 その日から、彼女は変わりはじめた。 放課後の部活の練習が終わっても、独りグラウンドに残り、黙々と走りつづけた。 彼女は強くなるために、一瞬たりとも時間をムダにしたくなかった。 授業の合間の休憩時間も練習にあてようと、校舎の階段をかけ上り、かけ下りた。 通学時間でも筋肉を鍛えようと4.0kgの砲丸をカバンの中に入れて歩いたりした。 「なにあの子、急にがんばりはじめてさ」 そんな心無い言葉を同級生から投げつけられても、彼女は気にも留めなかった。 ひとり猛然と練習に励む日々が半年ほどつづいた頃、試合で親しくなった友人が「本気で陸上競技をしているのなら」と、彼女をある店に連れていった。 ◆ また、会いにいきたい人 店の中には、メガネをかけた、やや小太りな女性がいた。 女性は事務机に向かって座り、たばこをふかしながら、彼女に質問をした。 種目は?記録は?お父さんの

「速記部」の彼女が「陸上部」の卒業写真におさまった理由~オリンピアサンワーズ物語(第5回)

2 020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第5回) ◆◇◆ 速記部の部長、走高跳びをする。 ある女の子の話。 彼女は無口で「ぼんやり」していた。 周囲の大人たちは彼女が何を考えているのかよくわからなかったし、彼女自身も自分が何を考えているのかよくわかっていなかった。 彼女は中学校へ入学すると速記部(そっきぶ)に入部した。 「何か身につくものを」と母親がすすめたのだった。 速記部はおもしろいのかおもしろくないのか、よくわからなかった。 しばらくして彼女は「やめたいな」と思ったけれど、その頃には、同級生達はみんな退部してしまっていた。 「 お前だけは、やめんといてくれ 」 と上級生の男の子たちに頼まれて、彼女は速記部をやめることができなくなった。 ある日の体育の授業は走り高跳びだった。 彼女の身長は学年でも高い方で、誰よりもバーを高く跳ぶことができた。 それを見た先生は、授業が終わると彼女を呼び止めた。 「 今度の日曜日、空いてるか? 」 日曜日の朝、彼女が先生に連れて行かれたのは、陸上競技場だった。 彼女は、着古されたユニフォームとスパイクシューズを渡され、走り高跳びの試合に出場した。 「 体育の時みたいに跳んだらいいから 」 先生にそう言われて、彼女は「体育の時」みたいにバーを跳びこえた。 その試合はブロックの大会で、彼女は3位の成績をおさめた。 それからも彼女は、陸上部ではないのに、試合のたびに先生から声をかけられ、競技場へ連れて行かれ、ユニフォームとスパイクシューズを渡されて、「体育の時」みたいにバーを跳び越えた。 彼女は速記部では部長になった。 彼女の学年には彼女しか部員がいなかったからだ。 陸上部の方は、結局、最後まで入部しなかった。 中学校の卒業アルバム。 撮影の時、先生は「あなたも写りなさい」と彼女を呼んだ。 こうして「速記部の部長」は、「陸上部」の集合写真にもおさまることになった。 ――この女の子は誰なのか?その話は次回。 ◆◇◆ 【サンワーズ写真館】 ・空冷式マラソンシューズ「マジックランナー」 鬼塚喜八郎さんが発明した「マメができないマラソンシューズ」オニツカタイガーの「空冷式マジックランナー」は、1959年の発売以来、爆発的に売れた。 なぜ「マメができない」のか?「マメ

店主が客の欲しがるシューズを売らない理由~オリンピアサンワーズ物語(第4回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第4回) ◆◇◆ 「あんたにはそのクツはやい!」 めちゃくちゃコワかったというオリンピアサンワーズの創業者・上田のおばちゃん。学生たちは簡単には店の中に入れてもらえなかったうえ( その話は前回の投稿でご紹介 )、なんと、欲しいものもなかなか買わせてもらえなかったそうです。 上田喜代子(1923-1986) 1960-1970年代当時、陸上競技に励む学生たちにとって、ニシスポーツ 、ハリマヤ、オニツカタイガーは憧れのスポーツブランドでした。 試合で競技場へ行くと、トップ選手たちが履くそれらのブランドのシューズが、彼らにはまぶしく見えたことでしょう。情報が乏しい時代、学生たちはこんな言葉を交わしたはずです。 「 あんなシューズ、どこに行ったら売ってんねん? 」 「 ニシの店に行ったらあるらしいぞ 」 「 その店どこにあんねん? 」 「 桃谷駅の近くにあるわ 」 「 へー、いっぺん行ってみるわ 」 「 お前、そこの店のおばちゃん、めっちゃコワいぞ。店に入る時、ちゃんと挨拶せーよ 」 彼らは胸をドキドキワクワクさせながら、オリンピアサンワーズへと足を運びます。そして、緊張しながら店の扉を開けて大きな声で挨拶をし、やっと店内に入れてもらうと、上田からこんな風に言われるのです。 上田 :で、種目は何で、記録はなんぼや? 学生 :はい、種目は100m、自己ベスト記録は○○秒です! 上田 :ちょっと足見せてみ。 学生 :はい(靴を脱ぐ) 上田 :……(ジッと足を見る)……あんたのクツはアレ。そこの棚にあるやつ、自分でとって、履いてみ。 学生 :はい(言われるままに棚から箱を取り出し、シューズに足を入れる) 上田 :(つま先をちょんちょんと触って)これでええ。あんたのクツはコレ。 学生 :あのー、トップ選手が履いてる〇〇のスパイクシューズが欲しいのですが…… 上田 : あんたには、まだそのクツは、はやい! 学生 :は、はい…。 上田 :あんたが履いたらクツも迷惑や。 学生 :…うっ…はい…。 上田 :もっといい記録を出してから買いにおいで。 学生 :わ、わかりました……。 ……とまぁ、こんな感じだったそうです。 そして、学生たちは、がんばって練習に励み、自己ベスト記

「ニシのおばちゃん」は簡単には店に入れてくれなかった~オリンピアサンワーズ物語(第3回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第3回) ◆◇◆ 「ニシのおばちゃん」 1964年に東京オリンピックが開催。日本は高度経済成長期を迎えます。 オリンピアサンワーズでもようやく陸上競技用品が揃いはじめ、陸上競技に取り組む熱心な学生たちや先生方が、毎日のように関西中から店に集うようになりました。 しかし、店には看板らしいものがなかったため、誰も店の名前がわかりません。 やがて学生たちの間では、「 どこにも売っていないニシスポーツ社の商品が手に入る店 」という意味で 「 ニシの店 」 と呼ばれるようになりました。 当時、ニシスポーツ社は競技者にとって憧(あこが)れのブランドであり、オリンピアサンワーズをその直営店だと思う人も多かったようです。 そして、店主の上田は 「 ニシのおばちゃん 」 と呼ばれるようになりました。 店の入り口は木の引き戸だった。みんなこの扉の前に立つと、緊張して襟を正した。 ◆ 「めっちゃこわかったで」 上田の思い出話をする時、誰もがこう言います。 「 ニシのおばちゃんは、めちゃくちゃコワかったでー 」 「 あのおばちゃんには、ようおこられたでー 」 お店にやってきた学生たちは、簡単には店の中に入れてもらえなかったそうです。 入店するには、まず、入り口で大きな声で挨拶をし、店の真ん中の事務机にでんと座る上田と、こんなやりとりをする必要がありました。 学生 :(店の扉を開けて)こんにちは! 上田 :(たばこを吸いながらギロっと見て)あんた誰や? 学生 :はい、〇〇高校陸上部の△△と申します! 上田 :何しに来たんや? 学生 :はい、スパイクシューズを買いたいと思い来させていただきました! 上田 :種目は何で、記録はなんぼや? 学生 :はい、種目は100mで、自己ベスト記録は□□秒です! 上田 :よっしゃ、入り。 学生 :失礼いたします!! ……とまぁ、こんな感じだったとか。 挨拶の仕方が悪くて帰らされた学生は「ざらにいた」そうです。今では(いや昔でも)到底考えられない接客です(笑)。 でも、このおばちゃんの厳しさには理由があったことを、学生たちは大人になってから気づくのです。 その話は次回に。 ◆◇◆ 【サンワーズ写真館】 ・靴修理台帳 1970~1980年代に使用さ

ジャガーに乗って会社に出勤していた女性が、陸上競技専門店を創業した理由~オリンピアサンワーズ物語(第2回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第2回) ◆◇◆ 創業者・上田喜代子 オリンピアサンワーズの創業者は上田喜代子(うえだ・きよこ)という女性でした。 上田喜代子(1923-1986) 上田はどのような人物であったのか? 伝え聞くところをご紹介してみますと……。 上田は1923年(大正12年)生まれ。青春時代は戦争のまっただ中で過ごしたことになります。学生時代は外交官を目指し、英語に堪能だったそうです。 終戦後、一度は英語の教師になりました。しかし、貧困にあえぐ子供たちに対して、学校教育は英語どころではありませんでした。 結局上田は、 いまの私が日本の役に立てるのは、学校教育の現場ではない。 と3か月で教職を辞しました。 その後、上田は大手建設会社に転職。語学力を活かして、海外の建築方法の翻訳や通訳をする仕事に就きました。 建設業界はビルの建築ラッシュで好景気に。上田は、愛車のジャガーで出勤、自宅から建築現場に乗りつけていたそうです。 上田曰く 大阪御堂筋に立ってるビルは、ぜんぶ私が建てたようなもの。 なんだとか。 上田は、建設業界に16年ほど身を置きましたが、40歳に手が届く頃、会社をあっさりと退職してしまいます。そして、陸上競技専門店という、畑違いの商売をはじめたのです。 上田は、なぜ、そんな決断をしたのでしょう。 その理由は、 建設会社でできることはぜんぶやった。これまでとまったく異なる環境で、まったく異なる仕事をして自分を試したかった。 ……ということらしいです。 上田が陸上競技の経験者であったかどうかは定かではありません。ただ、陸上競技はとても好きだったそうです。 ◆ 「陸上競技専門店」までの道のり オリンピアサンワーズを創業した1960年頃は、スポーツメーカーの商品開発もまだまだ発展途上であり、流通・販売経路も確立されていませんでした。特に、専門的な陸上競技用品はなかなか手に入りませんでした。 上田は、とにかくスポーツ業界に入り込むために、レスリングのウェアなども販売し商売をつづけながら、陸上競技の商品探しに奔走(ほんそう)しました。  やがて、オニツカタイガー(現アシックス)や、関東でしか入手できなかった陸上競技専門メーカー・ニシスポーツ、伝説のシューズメーカー・ハリマヤ