【中距離走】彼が駆け抜けた「2400m」と「338秒」の夏。~2018全国インターハイ男子800mの話(その2)。


◆◆◆

彼は、大丈夫だろうか?

2018年8月5日。
三重県伊勢市スポーツの杜陸上競技場。
全国インターハイ第4日目。

この日も三重は晴天に恵まれた。

川見店主は午前中の早い時間に競技場に到着した。
宿舎から移動してくるだけで、じっとりと汗が流れた。
熱気と湿気が肌にまとわりつき、息苦しいほどだった。
太陽にさらされるだけで、体力が奪われていく。
川見店主は、知人からもらった携帯用扇風機を顔にかざし、わずかでもいいから涼を求めた。

1週間ほど前。
川見店主が全国インターハイの観戦に行くことを決めると、周囲の人たちは反対した。
天気予報は、この週末の三重県の気温が他のどの地域よりも高くなると予想していた。
「こんな酷暑の中、三重まで行くって正気ですか?」
「競技場で一日中試合観戦なんてしたら、熱中症で倒れますよ」
心配した知人たちから、様々な熱中症対策グッズが川見店主に届いた。
携帯用扇風機は、そのひとつだ。

長時間、外にいたら危険だな。
そう考えた川見店主は、大事をとって、昨日と同じく、ホームストレート前の室内に設置された大会本部に足を運んだ。
ガラス越しに眺めるトラックでは、すでに競技がはじまっている。
審判や役員の人たちの苦労を思う。
この酷暑の中で、連日にわたり大会運営にあたる、その疲労はいかばかりだろう?
そして、選手たちは、彼は、大丈夫だろうか?

川見店主は、昨日の男子800m準決勝のレースを思い返した。
彼の走る姿が脳裏に浮かんだ。
初めて出場する全国インターハイ。
さすがの彼も苦戦したことだろう。
よくぞ決勝にまで勝ち進んでこれたなと、あらためて思った。
今日の決勝のレースで、彼はどんな走りをするだろう。
とにかく彼には、今持てる力のすべてを出し尽くしてほしい、悔いのない走りをしてほしいと願った。


彼は、まっすぐに前だけを見つめていた。

午後2時。
男子800m決勝。

川見店主は、昼過ぎまで室内の大会本部席で観戦していたが、このレースに合わせてスタンドの客席に移動した。
全国トップクラスの選手の中で彼がどんな走りをするのか、レース全体の展開の中でとらえようと考えていた。

日差しはさらに厳しくなっていた。
照り返すトラックは、白く発光して見えた。
そのまばゆい世界の中に、8つの背中が浮かんでいる。

すでに、8名の選手たちが、それぞれのスタートラインに立っていた。
レース直前、出場選手たちの名前がひとりづつ場内放送で紹介される。
全国インターハイの、しかも、決勝のレースで自分の名前が呼ばれる。
これほど選手たちにとって晴れがましい瞬間はないだろう。
名前を呼ばれると、選手たちは思い思いのポーズで声援にこたえた。
手を挙げ、観客席をぐるっと見渡して一礼する選手。
自分を応援するスタンドの人たちに向かって手を振る選手。

彼の姿は、第3レーンにあった。
まっすぐに直立し、まっすぐに前だけを見つめていた。
彼の名前が呼ばれた。
彼は前を向いたまま右手を挙げ、そのまま降ろすと、ぺこりとその場でお辞儀をした。
そして、また、まっすぐに前だけを見つめた。

さすがに決勝のレースには、錚々(そうそう)たるメンバーが揃っていた。
出場選手8名のうち6名が3年生。
残る2名が2年生、その一人が彼で、もう一人が優勝の最有力候補であるC選手だった。

真昼の競技場。
静寂。
8つの背中が前傾した。
時が止まる。
号砲。
白い光に包まれた、8つの背中が、駆けだした。
2018全国インターハイ男子800m決勝がスタートした瞬間。
(撮影・川見店主)


7つの背中

8名の選手たちには、それぞれに、勝負への覚悟と思惑があったことだろう。
ある選手は、初っ端から猛然とスピードをあげトラックに切り込んでいった。
ある選手は、あくまでも周囲のペースをうかがいながらゆっくりと走りだした。
8人8様の立ち上がりが、スタートの印象を混沌とさせ、レースの先行きを予想させなかった。

100mを過ぎ第2コーナーを抜けてオープンレーンに差しかかる。
バックストレートで8名の選手は、自分の位置を確保するように、ほぼ縦一列に並んだ。
200mを過ぎ第3コーナーを抜けてカーブに入ると、あらゆる選手間で、抜きつ抜かれつの激しい順位争いがはじまった。
時に体の一部は接触し合い、駆け引きの火花をトラックに巻き散らした。
その激しい接近戦は、この800mという苛酷な競技を譬(たと)える「トラックの格闘技」という言葉を見る者に思い出させた。

8名の集団は生き物のようにかたちを変えつづけた。
その中で順位は目まぐるしく入れ替わった。
300mを通過し第4コーナーを抜ける時、選手たちはほぼ団子の状態だった。
しかし、ホームストレートに入ると、ひとりの選手が明らかに遅れはじめた。

彼は、そのような光景を見たことがなかった。
目の前に、7つの背中が揺れて見えた。
それらは、分厚い壁となって、彼が前進するのを阻(はば)んだ。
もどかしい思いに駆られた。
抜き去ろうとした。
でも、体が思うように動かなかった。
7つの背中は、さらにさらに遠ざかっていった。

彼を応援する人たちも、これまで見たことがなかった。
あんなに苦しそうに走っている、彼の姿を。
最下位を走っている、彼の姿を。

川見店主は、彼と一緒に辛いレースを走っている気持ちだった。
スタートから遅れた。
いつもは先頭に躍り出るはずのバックストレートでも、スピードに乗れなかった。
彼らしい伸びやかな走りの瞬間は、どこにも見いだせなかった。
ひどく体調を崩しているのかと思うほどに、精彩を欠いていた。
400mを最下位で通過してからは、7名の集団との距離は開く一方だった。
残りの400mが途方もなく長い距離に思えた。
もう気持ちが途切れてしまいそうだった。
もはや勝負はついてしまったのか――。

しかし、彼は、捨てていなかった。
苦しみながら、走りつづけていた。
500m、600m、700mと、7つの背中を追い続けた。
ラストの100m、最後尾の選手をとらえた。
抜き去った。

結果。
第7位。
記録1分53秒42。


「2400m」と「338秒」が彼にもたらしたもの。

翌日。
大阪に帰ってからも、川見店主は彼のことが心配だった。
彼のお父さんに電話を入れた。
お父さんは心やすく話してくれた。

「アイツは、川見さんがわざわざ三重県にまで来てインソールをなおしてくれたことを、すごく喜んでました。私たちも感謝しています。それに決勝のレースも、よく最後の最後まであきらめずに走ったと思います。これまでのアイツなら、勝負を投げていたでしょう」

「彼は本当によくやりましたね。でも彼自身は、7位という結果に落ち込んでませんか?」

「それがね、全国インターハイが終わってから、まだアイツとは顔を合わせてないんですよ。そのまま合宿に行っちゃったもんですから(笑)」

さらに1週間後。
今度は、合宿から帰った彼が川見店主に電話をくれた。
川見店主は、彼の健闘を最大に讃えた。
その上で、彼に今の気持ちを聞いた。
彼は、とても悔しいとこたえた。
そして、冷静に、決勝のレースを分析してみせた。

他の選手はみんな、4×400mリレーのメンバーになるほどのスピードを持っていた。
だから、レースが最初からスピード勝負になることはわかっていた。
そのスピードが、今の自分には足りない。
結果、レース展開を自分のものにする走りが、まったくできなかった。
今も、時折に決勝のレースを思い起こし、胸が痛む――。

彼と話しながら、川見店主は、決勝の後に行われた男子800mの表彰式を思い出していた。
8名全員が乗る表彰台で、他の7名の選手は賞状を掲(かか)げて誇らし気だった。
彼だけがひとりうつむきがちで、居場所がないように、どこか落ち着きがなかった。

「じゃあ、表彰式の時も、ツラかったんだね」

「はい、ツラかったです」

「そのツラさを忘れないでほしいな」

「はい、忘れません」

「決勝のレースを何回も何回も思いだして、今は思う存分に苦しんでほしい。そこからしか、次への本当のスタートは切れないから」

「はい」

「大きな目標に向かって苦しめるなんて、キミはとてもラッキーだね」

「あ、そうか。そう思えばいいんですね。わかりました」

電話の向こうに、彼の人懐っこい笑顔が見えた。

最下位を走りながら、彼はこれまでにない屈辱を感じたことだろう。
全国大会の厳しさや、自身の力不足をひしひしと感じたことだろう。
しかし、彼は必死に持ちこたえた。
最後には順位をひとつあげる執念を見せた。
その姿の先に、これからの、もっと大きくなった彼の姿がつながって見える――。

川見店主は、彼の大きな成長を感じていた。
それこそが、この夏が彼にもたらした最大のものだったのだろう。

最後に、2018年の全国インターハイで彼が残した記録をまとめておく。

男子800m予選 :1分52秒16
男子800m準決勝:1分52秒14
男子800m決勝 :1分53秒42

駆け抜けた「2400m」と「338秒」。
7つの背中を追った平成最後の夏。
彼の中で、新たな何かが発芽した。
それはやがて、大きな果実を結ぶだろう。
新しい季節へ、新しい時代へと、彼は向かっていく。

(おわりです)

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