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【中距離走】彼が駆け抜けた「2400m」と「338秒」の夏。~2018全国インターハイ男子800mの話(その1)。


彼の姿を見たければ、陸上競技場に足を運べばいい。
そして、男子800mのレースを見ればいい。
400mトラックを2周するこの苛酷な競技で、ひとり、無謀に見えるほどに、スタートからぶっとばす選手がいることだろう。

それが、彼だ。

2018年、夏。
彼が駆け抜けた「2400m」と「338秒」のドラマを追う。

この物語の主人公「彼」↓


◆◆◆

彼は誰よりも速い記録で予選を通過した。

2018年8月4日。
三重県伊勢市スポーツの杜陸上競技場。
全国インターハイ第3日目。

真夏の三重の空は抜けるように青く、日差しは肌を刺すように熱かった。
容赦なく照りつける太陽は、トラックにメラメラと陽炎(かげろう)を立てた。

川見店主は、朝に大阪を出発し、午前中のうちに競技場へ到着していた。
そして、幸運にもトラック間近の大会運営本部で試合を観戦する機会を得た。
その本部席は、ホームストレート前、メインスタンド真下の室内に設置され、ガラス越しにトラックを一望できた。
目の前を走り過ぎる選手たちの息遣いさえも聞こえてくるようだった。

時刻は迫っている。
男子800m予選。
もうすぐ、彼の走る姿を見ることができるだろう。
彼は今日も、スタートからぶっとばすのだろうか?
全国インターハイを迎えるにあたり、彼の800mの自己ベスト記録「1分51秒61」は、全国ランキングで5位の成績だった。
その実力からすれば、予選通過は「当然」だった。
とはいえ、このような大きな舞台では、何が起こるかわからない。
川見店主は、少しだけ落ち着かない気持ちでトラックを見つめていた。


【午後12時45分】
男子800m予選は、8名×8組の64名で競われた。
彼が登場したのは、第8組のレース。
彼は、スタートから積極的にとばし、先頭でレースを引っ張った。
いつもの彼らしい走りだった。
トラックを2周し、そのまま1位でフィニッシュ。
難なく準決勝進出を決めた。
しかも、記録の1分52秒16は、予選8組の全選手の中でも堂々の1位だった。

川見店主は、彼の走りを見届けると、ホッと息をついた。
そして、彼にとっては次の準決勝が一番の勝負になるだろうと思った。
2018全国インターハイ男子800m予選を1位で通過したりゅうきくんの走り。
(撮影・川見店主)


準決勝に向けて川見店主は彼のインソールを補修した。


【午後3時】
男子800m予選が終わってから2時間後。

競技場の外に並ぶスポーツメーカーの販売ブースは、炎天下にさらされていた。
テントで日除けされたN社のブース内では、業務用の大きな扇風機が音を立てて回っている。
送られてくる風が、暑さをほんの少しだけやわらげていた。
その一角で。
組み立て式のテーブルを挟んで、川見店主と彼が座っている。

目の前の彼はよく日焼けしていた。
2時間前に800mを走った疲れは見えなかった。
川見店主は彼に聞いた。
予選おつかれさま。調子はどう?
彼は笑って、大丈夫ですとこたえた。

テーブルの上には、彼の試合用のスパイクシューズ。
川見店主は、シューズの中からインソールを抜きだした。
2か月前に作成したインソールには、足指の跡がくっきりと残っており、彼がしっかりと地面をとらえて走っていることを物語っていた。

次の準決勝のレースは、2時間後の午後5時20分スタート。
彼には最高の勝負をしてほしかった。
そのために、スパイクシューズを最高の履き心地にしておきたかった。
川見店主は、持参したはさみと表面材でインソールを補修しはじめた。
気心の知れたN社の社員が声をかけてくる。

「へー、今年もわざわざ三重県まで来て、お世話してあげるんですね」

昨年(2017)の山形インターハイの時も、川見店主は、女子三段跳び選手のインソールを補修するために大阪から山形にかけつけ、N社のブースの一角を借りたのだった。

一年前の話↓


しばらくして、ボディケア用品クリオ販売の「たぶっちゃん」が、その場に合流してくれた。たぶっちゃんは、大事な試合の時にはスケジュールを合わせてかけつけてくれる。川見店主にとって心強い味方だ。
たぶっちゃんは、彼の筋肉の状態を確認してケアを行い、的確なアドバイスを送ってくれた。
クリオ販売のたぶっちゃんとりゅうきくん。手前にはスパイクシューズと補修されたインソールが。
(撮影・川見店主)

その間に、川見店主はインソールの補修を終えた。
インソールをスパイクシューズに装着しなおし、彼に渡した。
彼は受け取り、言った。

「ここまでしてもらえるなんて。ありがとうございます」

「履き心地を確認してほしいんだけど」

「じゃあ、サブトラックで走ってきます」

彼はスパイクシューズを大事に抱え、ブースを出て行った。
真昼の光の中に包まれていく彼の背中を、川見店主はまぶしく見送った。

川見店主が思っていたよりも長い時間をかけてから、彼はブースに帰ってきた。
額には汗がにじんでいる。
川見店主が聞いた。

「インソール、どうだった?」

「これヤバいです。坂を駆けおりるみたいに、足が勝手に前に進みます。今までで一番いい感じです」

「次の準決勝は、自分の思い描く通りに走ってね。悔いの残らないレースにしてね」

「はい、がんばります」

そう言って彼は、いつもの人懐っこい笑顔を見せた。


男子800m準決勝、彼はスタートで遅れをとった。


【午後5時20分】
陽はようやくに傾きはじめていた。
競技場のメインスタンドを覆う屋根が、観客席とトラックに大きな影を投げかけている。
気温はまだ高かったが、日影があるだけで人々の心は幾分かやすらいだ。

男子800m準決勝がはじまる。
レースは、8名×3組の24名で競われた。
決勝に進出できるのは、各組2位まで×3組=6名とタイム順で拾われる2名との計8名の選手。
彼は第2組のレースに登場した。
この組の出場選手8名のうち7名は3年生で、彼ひとりだけが2年生だった。

川見店主は、このレースを、室内の大会本部ではなく、スタンドの観客席で観戦することにした。
トラックを見渡すことで、彼の全体的なレース展開を見ておきたかったからだ。
川見店主はスタンドにあがり、携帯用扇風機をかざしながら観戦した。
(撮影・川見店主)

川見店主は、見慣れた彼の後姿を第6レーンに見つけた。
ネイビーのランニングシャツに、ピンクのランニングパンツ。
スタートラインに立ち、まっすぐに前を向いている。

選手達がセッティングする。
場内は静まりかえる。
川見店主は、自分の鼓動を聞いた。
そして、号砲。

スタートしてすぐ、川見店主は、おや?と思った。
彼にしては、レースの入りが遅かった。
なぜ、彼はあんなにゆっくりしたペースで走りはじめたのだろう?
いや、他の選手たちのペースがとても速いのかもしれない。
さすがにこれは、全国インターハイの、しかも準決勝のレースなのだから。

彼は、みるみる遅れをとった。
はじめの100m、第2コーナーをさしかかった時には最下位だった。
やがてオープンレーンになると、彼はグングンとスピードをあげた。
バックストレートで、前を行くすべての選手を追い抜いた。
第3コーナーを周る時には、トップに躍り出ていた。

そのまま彼は、先頭で1周目の400mを通過した。
それからも果敢にレースを引っ張った。
いつもの彼らしい走りを見せた。
しかし、このまま彼が先頭を走りつづけられるほど、全国インターハイは甘くはなかった。

2018全国インターハイ男子800m準決勝で先頭を走るりゅうきくん
(撮影・川見店主)

彼は決勝に進めるのか?

川見店主は、胸が締め付けられるような思いでレースを見ていた。

終盤、レースが大きく動いたのは600mだった。
2周目の第3コーナーに差しかかった時、彼に疲れが見えはじめた。
後続の選手たちが一気に彼を追い抜きにかかった。
彼は、ひとり、ふたりと追い抜かれ、3位に落ちた。
さらに、もうひとりにも追い抜かれそうになった。
必死に耐えた。
3位のままホームストレートに入った。
残り100m。
前を行く二人の選手を猛追した。
徐々に距離は縮まった。
2位とほとんど並んだかに見えた。
そのままフィニッシュラインになだれこんだ。

結果。
1位と2位は0.1秒差。
2位と3位は0.04秒差。
彼の記録は1分52秒14で、第3位だった。
決勝に進出できるかどうかは、次のレースのタイム次第となった。

川見店主は落ち着かなかった。
いてもたってもいられなかった。
つづく第3組のレースを見届けると、すぐに席を立って大会本部へと足を向けた。一刻も早く結果を知りたかった。電光掲示板に表示されるのを待てなかった。

結局、彼はタイム順で拾われ決勝進出を決めた。
拾われたもう一人も、同じ組で走った4位の選手だった。
彼の組のレベルが高かったことを示していた。
川見店主は、ふたたび、ホッと息をついた。
高校2年生で、よくぞ全国インターハイの決勝までたどりつけたと、彼を讃えたかった。

川見店主は、スタンドへと戻った。
トラックでは、次の競技がはじまっていた。
緊張から解き放たれた体には力が入らなかった。
へたり込むように客席に腰を下ろした。
もう目の前のレースには集中できなかった。
時刻は午後6時になろうとしていた。
8月の太陽は、まだ沈みそうになかった。


次回、男子800m決勝の話へとつづきます!↓
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