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【大学駅伝】長距離ランナーの彼はきっとみんなをハラハラさせる。~R太郎くん伝説(その2)



(つづき)

彼の最初で最後の全国インターハイは、準決勝進出で幕を下ろした。

その数日後、彼は店に来てくれた。
川見店主は、アクシデントに見舞われても屈することなく走りつづけた彼の健闘を讃えた。
彼は、川見店主が拍子抜けするほど淡々と、こうこたえた。

「ああいうことは中距離のレースではよくあることですからね。僕のミスです。」

彼の夏が終わった。
秋が訪れ、駅伝のシーズンを迎えた。
彼は駅伝でも全国大会を目指した。
川見店主は、高校最後の駅伝を走る彼にマラソンシューズをフィッティングした。

2016年10月。高校最後の駅伝を走るR太郎くんのマラソンシューズをフィッティング。装着したオーダーメイド・インソールは最上級インソールのゼロ・アムフィット。

*****

2016全国高校駅伝大阪予選会

2016年11月3日。
全国高校駅伝大阪予選会。
淀川の河川敷を走るこのレースに優勝すれば、道は全国駅伝の舞台である京都の都大路へとつながっていく。
高校男子の駅伝は、42.195kmの距離を7名の選手が襷(たすき)をつなぎ走り抜く。
彼は、O高校第7区のアンカーとして出場した。

レースは終始、KH高校が先頭を引っ張った。
彼のO高校は第1区の時点で6位、1位KH高校との差は24秒。
その後もKH高校が1位をゆずらぬ鉄壁の走りを見せる。
O高校は徐々に順位を上げてKH高校を猛追。
アンカーの彼が襷を受け取った時、チームは2位につけていた。
1位KH高校との差は35秒。
チームは彼の走りに賭けた。祈った。
ゴールに一番はやく現れるのが彼の姿であってくれ!

彼は前を行くKH高校のアンカーT選手の背中を懸命に追った。
その激走は、区間1位のタイムを記録した。
しかし、T選手は辛くも逃げきった。
そのままKH高校が優勝した。
O高校は2位で涙を呑んだ。
その差28秒で、全国駅伝出場の夢は消えた。
彼の高校での陸上競技が、終わった。


*****

2017年、彼は長距離走者に生まれ変わる。

彼は、今春から陸上競技の某強豪大学に迎えられた。
そして、800mの中距離選手としてではなく、長距離選手として新しい道を歩むことになった。
これからは、5000mや10000mで成績を残し、駅伝でチームの起爆剤になることを求められている。

新しい彼が、新しい5足のシューズとともに始動する。

3月、走りこみ用とスピードトレーニング用のランニングシューズをフィッティング。装着したオーダーメイド・インソールは、いずれも最上級インソールのゼロ・アムフィット。


6月、スピードトレーニング用ランニングシューズとレース用マラソンシューズをフィッティング。装着したオーダーメイド・インソールは、いずれも最上級インソールのゼロ・アムフィット。


6月、彼にとって初めての長距離用スパイクシューズをフィッティング。装着したオーダーメイド・インソールは、最上級インソールのゼロ・アムフィット。


川見店主は彼に聞いた。
高校時代にあれほど命を懸けた800mは、もう走らないの?
彼は、やはり、淡々とこたえた。

「もう、走らないと思います」

過去への未練は微塵もない口調だった。
彼は、新しい未来を描きはじめている。

*****

彼が周囲をハラハラさせる理由。

彼は、走ればいつも己の限界の向こうにまで突っ込んだ。
それは「勝利」と「敗北」の境界線で、綱渡りをするような挑戦だった。
だから彼は、時に思いっ切り勝利し、時に思いっ切り敗北した。
彼には「ほどほど」ということがない。
仕方がない、彼は一生懸命なだけなのだから。

2017年6月18日。
京都市西京極陸上競技場にて全日本大学駅伝予選会が行われた。
彼は10000mのレースに出場した。
足もとには、フィッティングしたばかりの真っ赤なマラソンシューズが光る。
彼は川見店主と、このレースでの「32分切り」を約束していた。
結果、記録は31分36秒。
レース後、彼は川見店主に電話をかけた。
記録を聞いた川見店主は言った。

「まずはここからだね。」

彼はこたえた。

「ゴールで意識がぶっとんでしまいました。またやってしまいました。」

声の向こうに、バツが悪そうに頭をかいている彼が見えた。

彼はこれからも、周囲の人たちをハラハラさせることだろう。
思いっ切り成功したり失敗したりすることだろう。
そのたびに、笑ったり落ち込んだりすることだろう。
そして、力尽きるまで走りつづけることだろう。

彼が走れば、何かが起こる。
大学生R太郎くんの、新しい伝説がはじまります。


(おわりです)


「R太郎くん伝説<中学・高校編>」は旧ブログで↓

<2013>
・5月 R太郎くん中3で初ご来店
・7月 全中で800m2分切りを誓う

<2014>
・4月 強豪高校へ進学する
・6月 壮絶!高校デビュー5000m
・8月 道に迷うねんざくん
・9月 長距離への挑戦

<2015>
・3月 800mの走りを語る
・7月 メレンゲの上は走れるのか?
・9月 大阪高校総体優勝の話
・11月 駅伝大阪予選で区間1位の話

<2016>
・4月 沖縄の海で沈みそうになる
・7月 全国インターハイ出場決定

*****

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