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【ハリマヤ】金栗四三ミュージアムに展示された「カナグリシューズ」の謎に迫る!


「カナグリベガ」の「謎」

みなさん、こんにちは。

先日のブログ(9/7)でご紹介したとおり、ただ今、熊本県和水町(なごみまち)の「日本マラソンの父・金栗四三ミュージアム」では、オリンピアサンワーズから出張してる秘蔵の「ハリマヤシューズ」とハリマヤの資料が特別展示されています(2020年1月13日まで公開)。

ハリマヤって何?の人はこれを読んでね↓
伝説のシューズメーカーHARIMAYAの物語

そこで、ミュージアムの館長であるKさんが、その模様を撮影し、画像を送ってくださいました。
金栗四三さんの生まれ故郷に帰った、このハリマヤシューズたちの佇(たたず)まいをご覧あれ!
  
6足のハリマヤシューズとシューズバッグとカタログが展示されている
(撮影・K館長)

シブいーねっ!

展示された6足のシューズをご紹介しますと、

カナグリベガ(マラソンシューズ)
ホノルルアトランテ(ランニングシューズ)
ハリマンスーパーストーム(短距離スパイクシューズ)
ハリマンプリズム(短距離スパイクシューズ)
ハリマンサンダー(短距離スパイクシューズ)
・オリンピアサンワーズ特製の白スニーカー

ハリマヤは、マラソンシューズだけには、必ず商品名に金栗四三さんのお名前を冠しました。
カナグリ〇〇〇」っていう風に。

で、今回ミュージアムに展示されてるマラソンシューズ「カナグリベガ」がこちら↓
ハリマヤのマラソンシューズ「カナグリベガ」
(オリンピアサンワーズ店内で撮影)

このカナグリベガは、1985年頃に発売されました。
真っ白のアッパーに真っ赤な補強、それに、ゴールドの3本線のハリマヤラインが映えてます。
シューズにゴールドのラインって、今では珍しくもなんともないですが、当時は画期的だったそうですよ。
このシューズをはじめて見た時、オリンピアサンワーズの創業者・故上田喜代子は、

「なんやこれ、のし袋かいな!

とぼやいたそうです(笑)。
たしかに、そんな色合いですけども!
創業者・上田のおばちゃん(1924-1986)


で、そのカナグリベガ、この部分にご注目いただきたいのですが↓
カナグリベガのベロ部

ベロ部に、なーんか、おにぎりみたいな不思議なマークが刺しゅうされてますよね。
このマーク、他のハリマヤシューズでは見たことがありません。
付いているのは「カナグリベガ」だけです。
このマークは一体なにを意味するのでしょう?
ずーっと「」のままでモヤモヤしてたんですけど、やっと解明する機会に恵まれました。


元ハリマヤ社員さんの証言

数か月前のこと。
元ハリマヤの社員さんであるCさんが、オリンピアサンワーズにやってこられました。

Cさんは、1990年頃にハリマヤが倒産するまで、バリバリの営業マンとして会社を支えておられた方です。
川見店主は、二代目店主としてオリンピアサンワーズを継いだ時(1986)から、ずいぶんとCさんにはお世話になったんだとか。

ハリマヤ倒産後も、Cさんと川見店主との交流はつづいていました。
Cさんは、集英社「スポルティーバ」のWebサイトで連載された「消えたハリマヤシューズを探して」(2017)にも、歴史の証言者としてご登場されてます。
この記事を書いたWebスポルティーバ編集長さんとCさんをつなげたのは、川見店主です↓

関東在住のCさんがオリンピアサンワーズを訪問するのは、ハリマヤの営業マン時代から、なんと三十年ぶりです。
Cさんには、日本全国のハリマヤファンから当店に届く、たくさんのメールやおたよりをご覧いただきました。
中でも、こちらのブログでご紹介している、新潟県十日町にあったハリマヤ工場の写真を見ると、

懐かしいなー。真ん中の人が工場長ですね。この地域は豪雪地帯でね、冬になると工場も周辺の道路も雪で埋まって、商品が出荷できなくなるんですよ。大変でしたよねー

と笑っておられました。
新潟県十日町にあったハリマヤ工場
(写真は山田努さんご提供)

さて、せっかくハリマヤの「生き字引」のような人が目の前におられる、この機会を逃すわけにはいきません。
あの「」について、Cさんに訊いてみました。

――:あのー、不思議に思っていることがあるのですが。

Cさん:はい、なんでしょう?

――:ハリマヤの「カナグリベガ」というマラソンシューズのベロ部に付いている、この「おにぎり」みたいなマーク。これは一体何なのでしょうか?

Cさん:あー、これは「クリ」ですよ。

――:クリ?……って、あの「」ですか?

Cさん:そうですよ。金栗さんの「」を表してるんですよ。

――:あーっそうでしたか!そっか、栗なんだ!金栗さんだから栗!くーっ!思いつきませんでした!(悔しくてバンバンと膝をたたく)じゃあ、おにぎりじゃないんですね!

Cさん栗が大きく大きく成長していくイメージをマークにしました。

『月刊陸上競技』1985年4月号に掲載された「カナグリノバ」の広告↓

――:言われてみると、そんな感じに見えてきました。でも、ハリマヤの他のシューズには、このマークは使用されてませんよね?

Cさんその時の思いつきで作ったから次の商品にはつづかなかったんですよ(笑)。

――:「思いつき」で。なんというか、自由ですね(笑)。

Cさん:当時はわりとそんな感じだったんです。そーゆうことができた時代なんですよ(笑)。



つーわけで、「おにぎりじゃないよ、栗だよ!」なハリマヤ史上、最も貴重なマークが入ったマラソンシューズ「カナグリノバ」を見逃すな!
オリンピアサンワーズ秘蔵のハリマヤシューズ特別展示は、2020年1月13日まで
熊本県和水町金栗四三ミュージアムにてご覧いただけまーす!

金栗四三ミュージアム公式サイト

これまでの熊本県に行こうキャンペーン↓
1回目熊本県へ行こうキャンペーン
2回目和水町へ行こうキャンペーン
3回目玉名市へ行こうキャンペーン
4回目「江崎グリコ×金栗四三」企画展に行こう!
5回目金栗四三ミュージアムに行こう!

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【ハリマヤ】ハリマヤシューズの物語。

その昔、 HARIMAYA (ハリマヤ)というシューズメーカーがあったのをご存知でしょうか? 1912年 の第5回オリンピック・ストックホルム大会に、日本人初のオリンピック選手となった 金栗四三 氏は 足袋 (たび)を履いてマラソンに出場しました。その足袋をつくったのが、 播磨屋 (はりまや)という 足袋屋 さんでした。その後、播磨屋足袋店が日本を代表するランニングシューズメーカーへと発展したのが「 ハリマヤ 」です。 ハリマヤの歴史を紐解けば、そこには日本のマラソンとランニングシューズの 100年 の物語が見えてきます。 ***** ハリマヤとオリンピアサンワーズの歴史が交わるのは 1970年代 。 1960年頃に当店を「 陸上競技専門店 」として創業していた 上田喜代子 (うえだ・きよこ)は、陸上競技の専門的な商品を探して東奔西走し、ハリマヤのシューズにめぐり会いました。そのシューズづくりの技術力に感銘を受けた上田は、関西ではじめてハリマヤのシューズを販売するに至りました。 「足袋屋」だったハリマヤが作るマラソンシューズや陸上競技のスパイクシューズは、日本人の足によく合いました。足を入れれば、吸い付くようにフィットしました。最高の履き心地でした。 1990年頃に、残念ながらハリマヤはなくなりました。 しかし、すでにオリンピアサンワーズの二代目として店を継いでいた現店主の 川見充子 (かわみ・あつこ)は、「 ハリマヤのシューズづくりの技術が、後世に役立つ時がきっと来るはずだ 」とハリマヤのシューズや資料を、それからもずっと大切に保存しつづけてきました。 ***** 日本中には今なおハリマヤを愛し、懐かしむ方々がたくさんいらっしゃいます。旧ブログ(2005-2016)で掲載したハリマヤの記事には、そんなみなさまから、たくさんのコメントをいただきました。 中でも、ハリマヤの創業者である 黒坂辛作 (くろさか・しんさく)氏の"曾孫(ひまご)"さんからコメントをいただく機会があり、私たちはハリマヤの歴史をより深く知ることができました。 そして、これらのハリマヤ記事がきっかけとなり、2012年12月には、川見店主がテレビ番組「 開運なんでも鑑定団 」に 鑑定士 としてデビューするに至りました。川見