スキップしてメイン コンテンツに移動

ジャガーに乗って会社に出勤していた女性が、陸上競技専門店を創業した理由~オリンピアサンワーズ物語(第2回)



2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。
(連載:第2回)

◆◇◆

創業者・上田喜代子

オリンピアサンワーズの創業者は上田喜代子(うえだ・きよこ)という女性でした。

上田喜代子(1923-1986)


上田はどのような人物であったのか?
伝え聞くところをご紹介してみますと……。

上田は1923年(大正12年)生まれ。青春時代は戦争のまっただ中で過ごしたことになります。学生時代は外交官を目指し、英語に堪能だったそうです。

終戦後、一度は英語の教師になりました。しかし、貧困にあえぐ子供たちに対して、学校教育は英語どころではありませんでした。
結局上田は、

いまの私が日本の役に立てるのは、学校教育の現場ではない。

と3か月で教職を辞しました。

その後、上田は大手建設会社に転職。語学力を活かして、海外の建築方法の翻訳や通訳をする仕事に就きました。
建設業界はビルの建築ラッシュで好景気に。上田は、愛車のジャガーで出勤、自宅から建築現場に乗りつけていたそうです。
上田曰く

大阪御堂筋に立ってるビルは、ぜんぶ私が建てたようなもの。

なんだとか。

上田は、建設業界に16年ほど身を置きましたが、40歳に手が届く頃、会社をあっさりと退職してしまいます。そして、陸上競技専門店という、畑違いの商売をはじめたのです。

上田は、なぜ、そんな決断をしたのでしょう。

その理由は、

建設会社でできることはぜんぶやった。これまでとまったく異なる環境で、まったく異なる仕事をして自分を試したかった。

……ということらしいです。

上田が陸上競技の経験者であったかどうかは定かではありません。ただ、陸上競技はとても好きだったそうです。

「陸上競技専門店」までの道のり

オリンピアサンワーズを創業した1960年頃は、スポーツメーカーの商品開発もまだまだ発展途上であり、流通・販売経路も確立されていませんでした。特に、専門的な陸上競技用品はなかなか手に入りませんでした。

上田は、とにかくスポーツ業界に入り込むために、レスリングのウェアなども販売し商売をつづけながら、陸上競技の商品探しに奔走(ほんそう)しました。 

やがて、オニツカタイガー(現アシックス)や、関東でしか入手できなかった陸上競技専門メーカー・ニシスポーツ、伝説のシューズメーカー・ハリマヤの商品を関西で初めて販売することに成功。

すると、

あの店に行けば、欲しい陸上競技の商品と情報がすべて手に入る!

と店の評判が口コミで関西中の競技者に広がり、店は連日若者たちでにぎわうように。

上田によると

商品を箱から出して店に並べる間もないくらい、全部すぐに売れていった

ほどだったそうです。

◆◇◆

【サンワーズ写真館】

・オニツカ特約店の看板

「TRACK&FIELD 特約店」の文字が誇らしいオニツカの看板は、今も店内に展示しています。


・ミニチュアのオニツカスパイクシューズ

その昔、オニツカのシューズのサイドに縫われていたのは、今や誰もが知っている「アシックスライン」ではなく、こんな3本ラインだったんですって。


・オニツカタイガーのスパイクシューズ

これはご存知の「アシックスライン」。このアシックスラインがただの「デザイン」だと思ってる人は多いけど、そうじゃない。実は、1本1本のラインには「足のブレを抑える」役目があります。シューズの性能を高めるために、鬼塚(おにつか)社長が選手の声を聞きながら研究と試行錯誤を繰り返し、たどり着いたのが現在の「アシックスライン」なのです。ちなみに、アシックスの社員さんは「タイガーストライプ」って呼んでるそうです。


・ニシスポーツ社のスパイクシューズ

陸上競技専門メーカー・ニシスポーツのスパイクシューズ。当店のお客様が寄贈してくださったもの。箱には「Light,Durable,Just Fit to You(軽くて、耐久性があって、あなたにぴったり)」「MADE IN TOKYO」とあります。


(つづきます)

オリンピアサンワーズの物語を全部読む↓
第1回「創業日1963年9月8日」の謎
第2回「ジャガーに乗って会社に通勤していた女性が陸上競技専門店を創業した理由」
第3回「ニシのおばちゃんは簡単には店に入れてくれなかった」
第4回「店主が客の欲しがるシューズを売らない理由」
第5回「速記部の彼女が陸上部の卒業写真におさまった理由」
第6回「その日、彼女は人生が変わる運命的な出会いをした」
第7回「なぜ彼女は教師を辞めて、パートの皿洗いをはじめたのか?」
第8回「彼女は次代へのカギを渡された」
第9回「彼女は恐れていたその場所に座った」
第10回「太陽は沈もうとしていた」
第11回「彼女は創業者の心を追い求めていくと決めた」
第12回「太陽はふたたび昇っていく」
 
この記事をシェアする
  • B!

コメント

このブログの人気の投稿

【短距離走】たった半年で100mの記録を0.6秒も更新し、全中で4位に入賞した中学2年生スプリンターにフィッティングした7足のシューズとインソールとは?

全中で4位入賞 だいきくんは、中学2年生のスプリンター。 陸上競技の強豪校でがんばってます。 100mの自己ベスト記録は 11秒39 。 今年の夏には 全中(全日本中学校陸上競技選手権) に出場し、 男子4×100mリレー で見事に 4位入賞 を果たしました。 いよっっつ! ――だいきくん、全中出場&男子4×100mリレー4位入賞おめでとうございます! だいきくん: 「ありがとうございます」 ――だいきくんは、何走だったのですか? だいきくん: 「2走っす」 ――全国大会の舞台は緊張しましたか? だいき くん: 「予選は大丈夫だったすけど、 準決勝と決勝はヤバかった っす。めっちゃ緊張しました!」 ――レース後の表彰式で撮影された写真が、「 月刊陸上競技 」10月号に載ってますね。ダイキくんの姿を見つけたときは、とてもうれしかったし、誇らしかったですよ。かっくいー! 2017年8月に熊本県で開催された全中の結果が載ってる「月刊陸上競技」10月号。 だいき くん: 「実は、その写真の時、 めっちゃ落ち込んでた んす」 ――どうして?表彰台に上がって、賞状をもらって、最高にうれしい瞬間じゃないの? だいきくん: 「優勝したチームのタイムが 中学生新記録 だったっす。めちゃくちゃ速くて、勝負にならなかったっす。悔しかったっす」 ――いい経験ができましたね。 だいき くん: 「来年がんばるっす」 ◆ 37年ぶりに日本記録を樹立 ――全中が終わってから、調子はどうですか? だいき くん: 「この前の日曜日(10/9)、 日本新記録 をだしたっす」 ――えっ?日本新記録!? だいき くん: 「 大阪市民陸上カーニバル で、 低学年リレー (※)ってのがあったんすけど、僕はアンカーで走って日本記録を出したっす」 ※【低学年リレー】中学2年生と1年生でチームを編成するリレー。中2が第1走と第4走、中1が第2走と第3走をつとめる。 ――すごいすごい!調べてみたら、なんと1980年以来破られなかった記録を 37年ぶり に更新したって話じゃないですか!ダイキくん、 日本記録保持者 なんだ!」 だいき くん: 「 そうっす(得意気) 」 さらに、いよっっつ!

【ハリマヤ】無名の母たちがつくったハリマヤのシューズ~新潟県十日町市からのおたより

彼女たちこそが 一枚の古い写真。 木造の建物を背景に、きちんと整列した人たちが写る。 そのほとんどが、質素な作業服を身にまとった女性たちだ。 彼女たちは、きっと、市井に生きる無名の庶民の一人ひとりであったにちがいない。 しかし、ある時代において、多くの陸上競技選手やランナーたちを支えていたのは、まさしく彼女たちだったのだ。 ◆ 「いだてん」の足を支えた「ハリマヤ」 今年(2019)1月から毎週日曜日に放送されている NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」 。主人公は、日本のマラソンを創った 金栗四三 さんです。 金栗四三 (1891-1983) 金栗さんは、 1912年 の ストックホルム五輪 に、日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場、「 播磨屋(ハリマヤ) 」という足袋屋の足袋を履いて走りました。 しかし、北欧の堅い石畳のコースに足袋は弱く、金栗さんは膝を痛め、また日射病に倒れてレースを途中棄権するという悔しい結果に終わりました。 この失敗を糧に、金栗さんは、播磨屋の店主・ 黒坂辛作 さんと、マラソンを走る足袋を共同開発し、遂には、改良に改良を重ねて進化したマラソン足袋、いわゆる「 金栗足袋 」が誕生しました。そして、「金栗足袋」を履いた日本の歴代ランナーたちが、五輪や世界大会のマラソンで優勝する時代が1950年頃までつづきました。 ハリマヤ創業者・黒坂辛作 (1880-?) 播磨屋は戦後にはシューズメーカー「 ハリマヤ 」へと発展。 足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。 また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。 残念ながら、ハリマヤは 1990年頃 に倒産しました。 しかし、私たちはハリマヤを忘れてはいません。 オリンピアサンワーズには、今なおハリマヤを愛する人たちから、たくさんの「声」が届きます。そして、みなさんの記憶から、ハリマヤの歴史が掘り起こされています。 みなさんの声↓ ハリマヤ第二の故郷 新潟県十日町市から さて。 先日も、当店のFB(Facebook)に1枚の画像とともにこんなメッセー

なぜ彼女は教師を辞めて、パートの皿洗いをはじめたのか?~オリンピアサンワーズ物語(第7回)

2020年9月8日に創業57周年を迎えたオリンピアサンワーズ。その歴史のあれこれを、シリーズでご紹介します。 (連載:第7回) ◆◇◆ 教師からパートの皿洗いへ 18歳の誕生日に上田のおばちゃんと出会い、その人間性に魅了された川見は、その後の学生時代も、社会人になってからも、オリンピアサンワーズに足繁く通っては、学業や仕事や家庭での悩みを上田に相談していました。 川見にとって上田は、生きる勇気と人生の指針を与えてくれる、かけがえのない存在でした。 川見は大学卒業後に中学校の体育教員となりましたが、徐々に中学教育の在り方に疑問を持ちはじめました。 それを上田に相談すると 「 あんたがやりたい教育は小学校やな 」 とのこたえ。 そこで川見は、中学校での教員生活のかたわら、小学校の教員資格を2年がかりの通信教育で取得。結局、中学校を5年勤めた後、小学校教員へと転身しました。 「 教育こそ社会で最優先されなければならない 」 そんな理想に向かって猪突猛進する川見は、小学校でも市の教育委員会が讃嘆するほどのクラスを毎年つくりあげてみせました。 しかし、ある時、上田にこう言われました。 子供たちには学校以外の世界がある。子供には親があり、親もそれぞれの世界を背負っている。それを『世間』と呼ぶ。高い理想を掲げるのもいいが、その『世間』というものをあんたは知らなさすぎる。教師の身分を隠して、どこかでパートの皿洗いでもやってみなさい もっといい教師になりたい。ただその一心で、川見は、なんと上田の言葉どおりに、小学校を4年で退職してしまいました。 また、この頃、上田は体を悪くしていました。川見は上田の身の回りの世話をしたいと考え、自分はファミリーレストランのパートタイムで働きながら、上田の自宅と店への送り迎えを車で行い、店の営業も少しばかり手伝うようになりました。 パートの仕事では、教育現場とは違った、社会の厳しい現実をまざまざと見せつけられました。 当時、川見はすでに三人の子供を育てるシングルマザー。収入は激減し、子供たちの明日の食事代もままならないほどに家計はひっ迫しました。 でも川見は、 「 この経験が、私をいい教師にしてくれるなら 」 と歯を食いしばって生きていました。 そんな生活が9か月ほど経ったある日、川見に連絡が入りました。 「 上田のおばちゃんが、もうあぶない 」 ◆◇

【マラソン】フルマラソンに挑戦する50代男性ランナーを応援するブログをはじめます!【第1回】

「50s Runners Club」はじめます。 フルマラソンに挑戦する、 50代以上 の 男性ランナー を応援したい! というブログをシリーズではじめます。 名付けて「 50s Runners Club(フィフティーズ・ランナーズ・クラブ) 」。 第1回目は、3人のイカしたオジサマたちがご登場です! ***** 「やっと5時間を切れました」 【熊本県・ヨシユキさんの場合】 中学・高校時代は野球部で汗を流した。 でも、それからはスポーツらしいことは何もしてこなかった。 10年ほど前、突然腰痛に襲われる。 医者に行くと言われた。 運動不足です。カラダを動かしてください。 ジムで汗を流すようになった。 そこで知り合った人に、無理やりマラソン大会に申し込まされた。 2007年、熊本県氷川町梨マラソンに参加。 梨畑を5km走った。 ヨシユキさん: 「しんどかったですね。 死ぬかと思いましたね (笑)」 30分ほどかけてゴールにたどりついた。 参加賞でもらった梨は甘く美味しかった。 走り終わって食べた弁当は格別にウマかった。 帰りに皆で温泉につかり、ビールを飲んだ。 なんだこれは、最高の気分じゃないか。 ヨシユキさん: 「これが やみつきになりましてね 。走りつづけることになりました」 フルマラソンにも挑戦。 ・2014/12 青島(初フル)5時間20分 ・2016/03 鹿児島 5時間15分 しかし、走ると膝が痛むようになってきた。 2016年秋、オリンピアサンワーズに初ご来店。 2足のランニングシューズをフィッテング。 2016年秋。レース用(上)、走りこみ用(下)のランニングシューズをフィッティング。装着したオーダーメイドインソールは、いずれも最上級インソールのゼロ・アムフィット。 その後。 ・2016/11 福岡 5時間30分 ・2016/12 青島 4時間58分(PB) ヨシユキさん: 「 やっと5時間を切れました。もう膝も痛くなりません 」 2017年夏、ふたたびのご来店。 2足のランニングシューズをフィッティング。 2017年夏。走りこみ用(左)とレース用(右)のランニングシューズをフィッティング。装着したオーダーメイドインソールは

【ハリマヤ】ハリマヤシューズの物語。

その昔、 HARIMAYA (ハリマヤ)というシューズメーカーがあったのをご存知でしょうか? 1912年 の第5回オリンピック・ストックホルム大会に、日本人初のオリンピック選手となった 金栗四三 氏は 足袋 (たび)を履いてマラソンに出場しました。その足袋をつくったのが、 播磨屋 (はりまや)という 足袋屋 さんでした。その後、播磨屋足袋店が日本を代表するランニングシューズメーカーへと発展したのが「 ハリマヤ 」です。 ハリマヤの歴史を紐解けば、そこには日本のマラソンとランニングシューズの 100年 の物語が見えてきます。 ***** ハリマヤとオリンピアサンワーズの歴史が交わるのは 1970年代 。 1960年頃に当店を「 陸上競技専門店 」として創業していた 上田喜代子 (うえだ・きよこ)は、陸上競技の専門的な商品を探して東奔西走し、ハリマヤのシューズにめぐり会いました。そのシューズづくりの技術力に感銘を受けた上田は、関西ではじめてハリマヤのシューズを販売するに至りました。 「足袋屋」だったハリマヤが作るマラソンシューズや陸上競技のスパイクシューズは、日本人の足によく合いました。足を入れれば、吸い付くようにフィットしました。最高の履き心地でした。 1990年頃に、残念ながらハリマヤはなくなりました。 しかし、すでにオリンピアサンワーズの二代目として店を継いでいた現店主の 川見充子 (かわみ・あつこ)は、「 ハリマヤのシューズづくりの技術が、後世に役立つ時がきっと来るはずだ 」とハリマヤのシューズや資料を、それからもずっと大切に保存しつづけてきました。 ***** 日本中には今なおハリマヤを愛し、懐かしむ方々がたくさんいらっしゃいます。旧ブログ(2005-2016)で掲載したハリマヤの記事には、そんなみなさまから、たくさんのコメントをいただきました。 中でも、ハリマヤの創業者である 黒坂辛作 (くろさか・しんさく)氏の"曾孫(ひまご)"さんからコメントをいただく機会があり、私たちはハリマヤの歴史をより深く知ることができました。 そして、これらのハリマヤ記事がきっかけとなり、2012年12月には、川見店主がテレビ番組「 開運なんでも鑑定団 」に 鑑定士 としてデビューするに至りました。川見