日本陸上競技選手権大会の期間中は、営業時間を短縮します。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 6月 24, 2021 日本陸連大会HPより 日本陸上競技選手権大会の期間中(6/24〜6/27)は、営業時間を短縮します。営業時間・6/24(木)午前10時〜午後3時・6/25(金)午前10時〜午後4時・6/26(土)午前10時〜午後4時・6/27(日)休業ご理解の程何卒よろしくお願いいたします。当店ホームページ↓ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
【ハリマヤ】無名の母たちがつくったハリマヤのシューズ~新潟県十日町市からのおたより - 1月 21, 2019 彼女たちこそが 一枚の古い写真。 木造の建物を背景に、きちんと整列した人たちが写る。 そのほとんどが、質素な作業服を身にまとった女性たちだ。 彼女たちは、きっと、市井に生きる無名の庶民の一人ひとりであったにちがいない。 しかし、ある時代において、多くの陸上競技選手やランナーたちを支えていたのは、まさしく彼女たちだったのだ。 ◆ 「いだてん」の足を支えた「ハリマヤ」 今年(2019)1月から毎週日曜日に放送されている NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」 。主人公は、日本のマラソンを創った 金栗四三 さんです。 金栗四三 (1891-1983) 金栗さんは、 1912年 の ストックホルム五輪 に、日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場、「 播磨屋(ハリマヤ) 」という足袋屋の足袋を履いて走りました。 しかし、北欧の堅い石畳のコースに足袋は弱く、金栗さんは膝を痛め、また日射病に倒れてレースを途中棄権するという悔しい結果に終わりました。 この失敗を糧に、金栗さんは、播磨屋の店主・ 黒坂辛作 さんと、マラソンを走る足袋を共同開発し、遂には、改良に改良を重ねて進化したマラソン足袋、いわゆる「 金栗足袋 」が誕生しました。そして、「金栗足袋」を履いた日本の歴代ランナーたちが、五輪や世界大会のマラソンで優勝する時代が1950年頃までつづきました。 ハリマヤ創業者・黒坂辛作 (1880-?) 播磨屋は戦後にはシューズメーカー「 ハリマヤ 」へと発展。 足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。 また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。 残念ながら、ハリマヤは 1990年頃 に倒産しました。 しかし、私たちはハリマヤを忘れてはいません。 オリンピアサンワーズには、今なおハリマヤを愛する人たちから、たくさんの「声」が届きます。そして、みなさんの記憶から、ハリマヤの歴史が掘り起こされています。 みなさんの声↓ ハリマヤ第二の故郷 新潟県十日町市から さて。 先日も、当店のFB(Facebook)に1枚の画像とともにこんなメッセー... 続きを読む
【ハリマヤ】いだてん金栗四三と播磨屋黒坂辛作が生み出した金栗足袋。発祥の地の石碑は何を物語っているのか? - 2月 03, 2019 石碑「金栗足袋発祥之地 黒坂辛作」 「金栗足袋発祥の地」その石碑はどこに? 2019年NHK大河ドラマ「 いだてん~東京オリムピック噺 」。 主人公は「日本マラソンの父」 金栗四三 さんです。 「日本マラソンの父」金栗四三 金栗さんは、日本人初のオリンピック選手として、1912年ストックホルム五輪のマラソンに出場、足袋を履いて走りました。 その足袋を作ったのが、「 播磨屋足袋店 」の店主・ 黒坂辛作 さんでした。 ハリマヤ創業者・黒坂辛作 その後、黒坂さんと金栗さんはマラソンを走る足袋を共同開発、1919年頃には進化したマラソン足袋「 金栗足袋 」が誕生しました。 以来、1950年頃までは、日本の歴代ランナーたちが「金栗足袋」を履いて五輪や世界大会のマラソンを走り活躍する時代がつづきました。 (左上)1936年ベルリン五輪マラソン優勝の孫選手が履いた金栗足袋。(右下)1951年ボストンマラソン優勝の田中選手が履いた金栗足袋。写真は1989年度版ハリマヤカタログから。 播磨屋足袋店は、戦後にはシューズメーカー「 ハリマヤ 」に発展。 足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。 また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。 ハリマヤをより詳しく↓ しかし、1990年頃にハリマヤは倒産、忽然(こつぜん)と姿を消しました。 伝説となった「ハリマヤ」。 今も、 東京の「 ある場所」 に、「金栗足袋」を生みだした黒坂さんの偉業をこの世にとどめる記念の 石碑 が残っていると聞きます。 そのメールの送り主は? 2018年1月某日。 川見店主に一通のメールが届きました。 川見さん、はじめまして。 私は文京区大塚に住む黒坂辛作の曾孫にあたる者です。 曾お祖父さんの事を新聞でお話してくださり、とても感謝しています。 文京区役所で金栗四三さんや播磨屋足袋店の事をもっと広めていこうと言うことで、家から写真と四三さんの書いた色紙などを展示資料としてお貸ししました。 関西にも行くことがあるので、その時は是非オリンピアサンワーズに寄らせていた... 続きを読む
【マラソン】月間150kmの練習でフルマラソンを3時間25分で走れるようになった女性ランナーの秘密とは? - 9月 14, 2017 眠っていたのは○○な才能だった スポーツは得意ではなかった。 体育祭はいつも憂鬱(ゆううつ)だった。 中学時代は、いわゆる「帰宅部」。 でも高校では空手部に入ることになった。 友人にこんな風に誘われたのだ。 大丈夫、空手は運動神経とか関係ないから。 「入部してわかりました。関係ないわけないじゃん!って(笑)」 せっかく入ったのでつづけてみた。 自分の中に眠る「何か」の才能が花開くかもしれないし。 3年つづけた結果。 「空手の才能は眠ったままか、元々ないのかのどちらかだったみたいです(笑)」 その後もスポーツとは無縁の生活。 しかし、体力がだんだん落ちていくのが気になりだした。 「これからもっと年齢を重ねたら……って将来のことを考えると、元気なおばあちゃんでいたいなって思ったんです」 ならば、今から足腰を鍛えておかなければ。 6年前から少しずつ走りだした。 マラソン大会なるものがあることを知る。 思い切って地方の大会に申し込んだ。 4.5kmのレース。 「それが、あっという間に走り終わって。せっかく遠くまできたのに、走る時間が短いと来た甲斐がないなーと思ったんです」 今度は10kmのレースに出場。 50分程度で走れた。 5年前(2012)、大阪マラソンに申し込んでみたら当選した。 初めて42.195kmを走ることになった。 それがどんな距離なのかは想像できなかった。 ペースも目標タイムも何も設定できなかった。 完走できるかどうかも、もちろんわからない。 だから、自分の思うままに、カラダの動くままに走りつづけてみた。 「大阪マラソンはレース後半で食べ物がたくさん並んでいるエイドがあるでしょう?そこで、めいっぱい食べて(笑)。それが美味しかったし、楽しかったですね」 初フルマラソンは4時間30分で無事に完走。 以降、毎年フルマラソンに挑戦する。 ・2013/10 大阪 3時間59分 ・2014/10 大阪 3時間57分 ・2015/11 淀川 3時間45分 ・2016/02 口熊野 3時間31分 ・2016/10 大阪 3時間28分 ・2017/02 京都 3時間25分(PB) 走る度に記録を更新。 いつの間にかサブ4からサブ3.5ランナーへ。 眠っていたの... 続きを読む
コメント
コメントを投稿