スキップしてメイン コンテンツに移動

【テレビ】円谷幸吉はそこに手を置き、サインをした。~川見店主、君原健二さんに会いに行く。(その3)



その2「1964年東京オリンピックのポスターとスカーフの話」のつづきです)

4月18日の「開運!なんでも鑑定団」に鑑定士として出演した川見店主。
鑑定の依頼人は、なんとあの五輪メダリスト・君原健二さんでした。
君原さんのお宝は、1964年東京オリンピックで選手と関係者のみに配られたシルクのスカーフ。そこには、大会に出場した陸上競技選手のサインがビッシリと寄せ書きされていました。

1964東京五輪に出場した陸上競技選手58名のサイン入りスカーフ
(なんでも鑑定団より)

*****

58名のサイン

――さて、君原健二さんの「1964年東京五輪のサイン入りスカーフ」について、川見店主にさらに詳しく聞きたいと思います。


川見店主:感動です。」
川見店主

――このスカーフには、東京五輪に出場された陸上競技選手全員のサインが書き込まれているのですか?


川見店主:
「選手団は68名で、その内58名(2名はコーチ)のサインが確認できました。」

鑑定に入る川見店主(なんでも鑑定団より)


――では出場選手ほとんどの方のサインが入っているのですね。


川見店主:
「ひとつひとつのサインと、選手おひとりおひとりのお名前を照合しました。お名前を確認するたびに、その選手がスカーフから立ち現れてくるかのようで、ずっと、ワクワクゾクゾクしてました!」


――解読が難しいサインはありませんでしたか?


川見店主:
「もちろんありました。『あれ?これ、なんて書いてあるのかな?』ってよくよく見てみたら走る人のイラストだったり!」


――絵心のある選手もおられたのですね(笑)。


川見店主:
「実は、同じ選手が2つサインしてるのも見つかったのですよ。」


――「あれ?俺、書いたっけ?」「どうやったっけ?とりあえず、もう一回書いといてよ」みたいな感じだったんですかね(笑)。


川見店主:
「どうでしょうね(笑)。そんなこともあるかも。」


――これらのサインは、君原さんがぜーんぶおひとりで集められたのですか?


川見店主:
「そうなんですって。大会の期間内にこれだけのサインを集めるのって大変だったと思います。君原さんご自身は『こんなことしてるからコンディション調整がおろそかになって、マラソンの成績が自己記録より3分30秒も悪かった』って笑っておられましたけども。」


名選手たち

――番組ではお宝鑑定の前に、君原さんの他にも東京五輪で活躍された代表4名の選手の映像が紹介されました。

・円谷幸吉(つぶらや・こうきち)さん:男子マラソン3位銅メダル
・依田郁子(よだ・いくこ)さん:女子80mハードル5位入賞
・飯島秀雄(いいじま・ひでお)さん:男子100m準決勝進出
・寺沢 徹(てらさわ・とおる)さん:男子マラソン15位


川見店主:
「当時の映像でみなさんの勇姿を拝見すると、東京五輪の感動と興奮が今も私たちに伝わってきますね。」


――飯島秀雄さんのスタートダッシュ、いわゆる"ロケットスタート"の写真は強烈でした。


川見店主:
「見事ですね。キレイですね。芸術です。」

飯島秀雄選手の鋭い前傾姿勢は"ロケットスタート"と呼ばれた
(なんでも鑑定団より)

――依田郁子さんは、日本記録を12回も塗りかえた偉大なスプリンターだったのですね。


川見店主:
「実は、私の大学時代の恩師は、依田郁子さんのコーチのひとりだったんです。依田さんのお話はよくお聞きしてました。」


――へー、そんなつながりがあったのですね!


川見店主:
「それと、スカーフのサインの中には、男子4×400mリレーに出場されたHTさんのお名前もありましたよ。」


――今から30年ほど前の話ですが、HTさんはよくオリンピアサンワーズに来られてましたよね。川見店主とコーヒーを飲んで雑談されてたHTさんの姿を覚えています。


川見店主:
HTさんは、日本選手権男子100m男子200m度々優勝されてます。全日本実業団選手権では、男子100m200m400m4×100m優勝4×400m2位でしたが、1大会で4冠達成という偉業を成し遂げた選手でもあります。」


――そ、そ、そんなスッゴイ方が、なんで、よく店に来られてたのですか?


川見店主:
「当時は某スポーツメーカーに勤めておられて、商品のことやシューズのことを話しに来られてました。『この●●のメーカーのシューズどう思う?』とか。」


――そうだったんですか。


川見店主:
「他にも、番組放送後に高校の恩師から電話があって『君原さんとは今でも一緒に飲みに行く仲やで』って言ってました。学生時代に長距離選手だった恩師は、同世代の君原さんに親しくしてもらっていたそうで、その関係は今も続いているそうです。」


――君原さんと飲みに行くなんて、うらやましい話です。


川見店主:
「それと、スポーツメーカーN社のIさんは『大学時代に飯島秀雄さんの娘さんと同期だった』と教えてくれました。娘さんも短距離選手だったんですって。」


――案外、身近なところで色んな人たちがつながってるものですね。


川見店主:
「出演前に知っていたら、もっとみなさんにお話を聞いておいたのに。そしたら、お宝鑑定の調査はもっとはかどったかもしれません(笑)。」



円谷幸吉のサイン

――番組で紹介された円谷幸吉さんの映像は涙を誘いました。


川見店主:
「番組収録の時もあの映像はすべて流れるのですが、鑑定士の席に座りながらも、もう泣きそうでした。」


――1964年東京五輪から4年後、メキシコシティ五輪が開催される1968年が明けて間もない1月9日に、円谷さんは自らの生涯を絶たれました。当時、日本中は大きな悲しみに包まれたと聞いています。


川見店主:
「円谷さんの死を受けて、君原さんがメキシコでのメダル獲得を決意されたお話は有名です。そして、見事に2位銀メダルの快挙を成し遂げられました。」

君原健二は円谷幸吉の葬儀に弔電を打った。
「ツブラヤクン シズカニネムレ キミノイシヲツギ メキシコデ ヒノマルヲアゲルコトヲチカウ」
円谷幸吉27年の生涯を追った「長距離ランナーの遺書」収録
沢木耕太郎著「敗れるざる者たち」

――やはり、円谷さんのサインは特別でしたか?


川見店主:
「円谷さんのサインを見て、不思議な気持ちでした。ここに円谷さんが手を置いて、マジックを握り、そしてサインをされたのだと思うと……胸にこみあげてくるものがありました。君原さんと円谷さん、おふたりにしかわからない、おふたりだけの友情に触れた気がして、厳粛な気持ちになりました。」


(もう1回だけ、つづきます↓)
・その4 そして、2020年の東京オリンピックへ

この記事をシェアする
  • B!

コメント

このブログの人気の投稿

【短距離走】たった半年で100mの記録を0.6秒も更新し、全中で4位に入賞した中学2年生スプリンターにフィッティングした7足のシューズとインソールとは?

全中で4位入賞 だいきくんは、中学2年生のスプリンター。 陸上競技の強豪校でがんばってます。 100mの自己ベスト記録は 11秒39 。 今年の夏には 全中(全日本中学校陸上競技選手権) に出場し、 男子4×100mリレー で見事に 4位入賞 を果たしました。 いよっっつ! ――だいきくん、全中出場&男子4×100mリレー4位入賞おめでとうございます! だいきくん: 「ありがとうございます」 ――だいきくんは、何走だったのですか? だいきくん: 「2走っす」 ――全国大会の舞台は緊張しましたか? だいき くん: 「予選は大丈夫だったすけど、 準決勝と決勝はヤバかった っす。めっちゃ緊張しました!」 ――レース後の表彰式で撮影された写真が、「 月刊陸上競技 」10月号に載ってますね。ダイキくんの姿を見つけたときは、とてもうれしかったし、誇らしかったですよ。かっくいー! 2017年8月に熊本県で開催された全中の結果が載ってる「月刊陸上競技」10月号。 だいき くん: 「実は、その写真の時、 めっちゃ落ち込んでた んす」 ――どうして?表彰台に上がって、賞状をもらって、最高にうれしい瞬間じゃないの? だいきくん: 「優勝したチームのタイムが 中学生新記録 だったっす。めちゃくちゃ速くて、勝負にならなかったっす。悔しかったっす」 ――いい経験ができましたね。 だいき くん: 「来年がんばるっす」 ◆ 37年ぶりに日本記録を樹立 ――全中が終わってから、調子はどうですか? だいき くん: 「この前の日曜日(10/9)、 日本新記録 をだしたっす」 ――えっ?日本新記録!? だいき くん: 「 大阪市民陸上カーニバル で、 低学年リレー (※)ってのがあったんすけど、僕はアンカーで走って日本記録を出したっす」 ※【低学年リレー】中学2年生と1年生でチームを編成するリレー。中2が第1走と第4走、中1が第2走と第3走をつとめる。 ――すごいすごい!調べてみたら、なんと1980年以来破られなかった記録を 37年ぶり に更新したって話じゃないですか!ダイキくん、 日本記録保持者 なんだ!」 だいき くん: 「 そうっす(得意気) 」 さらに、いよっっつ!

【ハリマヤ】いだてん金栗四三と播磨屋黒坂辛作が生み出した金栗足袋。発祥の地の石碑は何を物語っているのか?

石碑「金栗足袋発祥之地 黒坂辛作」 「金栗足袋発祥の地」その石碑はどこに? 2019年NHK大河ドラマ「 いだてん~東京オリムピック噺 」。  主人公は「日本マラソンの父」 金栗四三 さんです。 「日本マラソンの父」金栗四三 金栗さんは、日本人初のオリンピック選手として、1912年ストックホルム五輪のマラソンに出場、足袋を履いて走りました。 その足袋を作ったのが、「 播磨屋足袋店 」の店主・ 黒坂辛作 さんでした。 ハリマヤ創業者・黒坂辛作 その後、黒坂さんと金栗さんはマラソンを走る足袋を共同開発、1919年頃には進化したマラソン足袋「 金栗足袋 」が誕生しました。 以来、1950年頃までは、日本の歴代ランナーたちが「金栗足袋」を履いて五輪や世界大会のマラソンを走り活躍する時代がつづきました。 (左上)1936年ベルリン五輪マラソン優勝の孫選手が履いた金栗足袋。(右下)1951年ボストンマラソン優勝の田中選手が履いた金栗足袋。写真は1989年度版ハリマヤカタログから。 播磨屋足袋店は、戦後にはシューズメーカー「 ハリマヤ 」に発展。 足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。 また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。 ハリマヤをより詳しく↓ しかし、1990年頃にハリマヤは倒産、忽然(こつぜん)と姿を消しました。 伝説となった「ハリマヤ」。 今も、 東京の「 ある場所」 に、「金栗足袋」を生みだした黒坂さんの偉業をこの世にとどめる記念の 石碑 が残っていると聞きます。 そのメールの送り主は? 2018年1月某日。 川見店主に一通のメールが届きました。 川見さん、はじめまして。 私は文京区大塚に住む黒坂辛作の曾孫にあたる者です。 曾お祖父さんの事を新聞でお話してくださり、とても感謝しています。 文京区役所で金栗四三さんや播磨屋足袋店の事をもっと広めていこうと言うことで、家から写真と四三さんの書いた色紙などを展示資料としてお貸ししました。 関西にも行くことがあるので、その時は是非オリンピアサンワーズに寄らせていただきたい

【ハリマヤ】ハリマヤシューズの物語。

その昔、 HARIMAYA (ハリマヤ)というシューズメーカーがあったのをご存知でしょうか? 1912年 の第5回オリンピック・ストックホルム大会に、日本人初のオリンピック選手となった 金栗四三 氏は 足袋 (たび)を履いてマラソンに出場しました。その足袋をつくったのが、 播磨屋 (はりまや)という 足袋屋 さんでした。その後、播磨屋足袋店が日本を代表するランニングシューズメーカーへと発展したのが「 ハリマヤ 」です。 ハリマヤの歴史を紐解けば、そこには日本のマラソンとランニングシューズの 100年 の物語が見えてきます。 ***** ハリマヤとオリンピアサンワーズの歴史が交わるのは 1970年代 。 1960年頃に当店を「 陸上競技専門店 」として創業していた 上田喜代子 (うえだ・きよこ)は、陸上競技の専門的な商品を探して東奔西走し、ハリマヤのシューズにめぐり会いました。そのシューズづくりの技術力に感銘を受けた上田は、関西ではじめてハリマヤのシューズを販売するに至りました。 「足袋屋」だったハリマヤが作るマラソンシューズや陸上競技のスパイクシューズは、日本人の足によく合いました。足を入れれば、吸い付くようにフィットしました。最高の履き心地でした。 1990年頃に、残念ながらハリマヤはなくなりました。 しかし、すでにオリンピアサンワーズの二代目として店を継いでいた現店主の 川見充子 (かわみ・あつこ)は、「 ハリマヤのシューズづくりの技術が、後世に役立つ時がきっと来るはずだ 」とハリマヤのシューズや資料を、それからもずっと大切に保存しつづけてきました。 ***** 日本中には今なおハリマヤを愛し、懐かしむ方々がたくさんいらっしゃいます。旧ブログ(2005-2016)で掲載したハリマヤの記事には、そんなみなさまから、たくさんのコメントをいただきました。 中でも、ハリマヤの創業者である 黒坂辛作 (くろさか・しんさく)氏の"曾孫(ひまご)"さんからコメントをいただく機会があり、私たちはハリマヤの歴史をより深く知ることができました。 そして、これらのハリマヤ記事がきっかけとなり、2012年12月には、川見店主がテレビ番組「 開運なんでも鑑定団 」に 鑑定士 としてデビューするに至りました。川見

【ハリマヤ】『陸王』がつないだ100年のドラマ~語りつづける者がいるかぎり、襷(たすき)は…。

ハリマヤのシューズバッグとスパイクシューズ 【2017年】100年のドラマが動き出す。 川見店主は、知らなかった。 その人物の本当の名前すらも知らなかった。 だから、会えるとも思っていなかったし、会いたいという願望もなかった。 しかし、川見店主こそが、その人物に会わなければならなかった。 事態は「向こう」からやってきた。 2017年11月某日。 オリンピアサンワーズにかかってきた1本の電話は、まさしく、その人物からだった。 『陸王』 がつないだ、100年のドラマが動き出す。 ***** 【1912年】播磨屋(はりまや)のマラソン足袋 日本のランニングシューズの歴史は、「 播磨屋 (はりまや)」という 足袋屋 からはじまっている。 播磨屋は、1903年に東京大塚に創業された。 創業者は 黒坂辛作 (くろさか・しんさく)。 【黒坂辛作】 播磨屋足袋店創業者 当時、播磨屋の近くにあった東京高等師範学校の学生たちが、この店の足袋を愛用していた。その学生のなかに、 金栗四三 (かなくり・しそう)がいた。 1912年、金栗は日本人で初めてオリンピック(ストックホルム大会)に出場、播磨屋の足袋を履いてマラソンを走った。 オリンピックに惨敗した金栗は、その後、 箱根駅伝 をはじめ多くのマラソン大会を実現するなど、長距離ランナーの育成に生涯を懸けた。そして、黒坂とともに、日本人が世界で戦うための「 マラソン足袋 」を 共同開発 しつづけた。 1936年の ベルリン五輪 では、マラソン日本代表の孫基禎(ソン・ギジョン)選手が「マラソン足袋」で走り抜き優勝。播磨屋は、ついに世界を制した。 日本にマラソンを確立したのは、金栗四三だった。 その時代を足元で支えたのは、播磨屋の「マラソン足袋」だった。 戦後を迎えるまで、日本の長距離選手は「マラソン足袋」で走るのが主流だった。 【金栗四三(1891-1983)】 日本人初のオリンピック選手。箱根駅伝の創始者。「日本マラソンの父」と称される。 やがて、播磨屋は、日本を代表するランニングシューズ・メーカー「 ハリマヤ 」へと発展を遂げる。国内の工場で、職人たちが熟練した技術で作り上げるハリマヤのシューズは、日本人の足によく合い、多くの陸上競技

【中距離走】800mを1分56秒で走る中学生は、なぜ、たった3カ月で記録を6秒も更新できたのか?~中距離ランナーりゅうきくんの話(その1)

中学3年の春、彼の能力は目覚めた。 彼は中学生になって陸上部に入った。 走ることが好きだ、という「自覚」はあまりなかった。 がんばろうという気持ちも、さほど強いわけではない。 本人にも、お父さんにもお母さんにも、わからなかった。 彼の能力は地中深くにあって、誰の目にも触れなかった。 そのまま、中学校の2年間が過ぎた。 中学3年の春。 時は突然にやってきた。 眠っていた彼の能力は目覚め、大地を蹴破り一気に発芽した。 そして、わずか3か月で、途方もない花を咲かせることになる。 話は、2016年5月1日の出来事からはじる。 ◆ 【2016年5月1日 京都市中学校総体】 彼は男子800m決勝のレースで、これまでにない走りっぷりを見せた。 他の選手たちを大きく引き離して独走し、ぶっちぎりで優勝。 記録は2分02秒40。 この快挙に、彼のチームは大騒ぎになった。 観戦していたお母さんは、驚きやら感動やらで涙が止まらなかった。 お父さんは、これは大変なことになったと思った。 全中(全日本中学校陸上競技選手権)の男子800m出場資格は2分01秒。もう少しがんばったら、息子は全中に出場できるんじゃないか? ならば、とお父さんは思う。 できるかぎりの応援をしてやろう。彼の足に合うシューズを買ってあげよう。 色々調べていると、ある店のブログを見つけた。 そこには、同じく800mで全中に出場を果たした、ある男の子のことが書かれていた。 よし、この店に息子を連れて行こう。 思い立つとすぐ、その店に電話を入れた。 お父さんが読んだ「R太郎くん伝説」↓ ◆ 800m2分切りと全中出場を目指して 【2016年5月12日 オリンピアサンワーズ】 ご両親に連れられて、彼はオリンピアサンワーズにやってきた。 長身で細身、優しい顔をしていた。 川見店主は彼に聞いた。 川見店主: 「800mで2分切りたいよね?全中に行きたいよね?」 彼は、一緒に来た小さな妹の遊び相手をしながら、はい、とこたえた。 川見店主は、その立ち姿を見て、彼のランニングフォームが想像できた。 川見店主: 「今の彼は、きっと下半身だけで走ってます。上半身も使って走れるようになれば、800mで2分を切れると思います」