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創業55周年を迎えたオリンピアサンワーズから、みなさまへお手紙を書きました。



本日、9月8日はオリンピアサンワーズの創業記念日です。
おかげさまで、55周年を迎えました。
ありがとーございます!

以下の文章は、5年前(2013)に「創業50周年」を記念して、当店のホームページに公開したものです。私たちの「これまで」の歩みと「これから」の決意を綴った、皆様への「お手紙」です。
2018年の今も、同じ気持ちです。
少々長くはなりますが、少しだけ(ほんの少しだけ)加筆し、ここに再掲載させていただきます。

***

オリンピアサンワーズは、わがままである。

お客様には「貪欲」であってほしい。
「もっと歩きたい」
「もっと走りたい」
「もっとパフォーマンスを向上させたい」
そんな風に、
昨日より今日、今日より明日へと
これまでの自分を乗り越えることに「わがまま」であってほしい。

そして、オリンピアサンワーズは、
お客様よりも、きっと、ずっと、「貪欲」で「わがまま」である――。


1963年9月8日

オリンピアサンワーズは「陸上競技専門店」として、ひとりの女性からはじまった。
創業者の名前は上田喜代子(うえだ・きよこ)。
上田喜代子
(1924-1986)

上田がいつオリンピアサンワーズを創業したのか?
本当のところはよくわかっていない。
現在では「1963年9月8日創業」ということになっているが、これには理由がある。

1964年10月10日、東京オリンピックが開催された。
上田は生前(せいぜん)に、

店を閉めて東京オリンピックを見に行った

と語っていたらしい。

また、日本陸上競技連盟が東京五輪運営のために発行した『陸上競技公式ハンドブック』には、オニツカタイガー(後のアシックス)の広告の隣に、オリンピアサンワーズ(当時の社名は「日本ニュースポーツ」)の広告が肩をならべて掲載されている。
『第18回オリンピック大会陸上競技ハンドブック』に掲載されている広告。
左が当店、右がオニツカタイガー。

上田亡き後、上田に近しい者たちで話し合い、
「店は少なくとも東京オリンピックの前年には存在していただろう」
として、「1963年」をオリンピアサンワーズの「創業年」とした。
9月8日」は、上田の「誕生日」である。


陸上競技専門店として創業

196X年。
大阪市天王寺区烏ヶ辻という小さな町の一角に、その店はあった。
看板はなかった。
誰も店の名前を知らなかった。
入り口の引き戸に「陸上競技用品」と小さく書かれてあるのみだった。
大阪環状線桃谷駅近くにあった初代店舗。1991年まで営業。

当時はまだ、陸上競技の専門的な商品がなかなか手に入らなかった。
スポーツメーカーも商品開発は発展途上にあったし、流通や販売の経路も確立されていなかった。
上田は競技者のために商品探しに奔走(ほんそう)した。
やがて、関東でしか手に入れることができなかった陸上競技専門メーカー「ニシスポーツ」や、伝説のシューズメーカー「ハリマヤ」の商品を、関西で初めて販売することに成功した。


「アンタには、まだそのクツは、はやい!」

「あの店に行けば、陸上競技の商品と情報が手に入る」

オリンピアサンワーズの噂は口コミで広がり、店は若者たちでにぎわいはじめた。
誰もが、憧れのメーカーの新しいシューズを欲しがった。
しかし上田は、若者たちに簡単にシューズを売らなかった。
誰もが上田に、まず、こう言われた。

「アンタには、まだそのクツは、はやい!」

上田は、不思議な人物だった。
目の前にいる選手の競技能力を見抜くことができた。
シューズの性能を独自に分析し、すべて把握していた。
選手と一言二言の会話を交わし、足を見るだけで、どのシューズが必要なのかがわかった。

だからシューズは、選手の「能力」と「足」に合わせて、上田自身が選んだ。
選手は自分でシューズを選ぶことが許されなかった。
シューズは箱の中に入れられたまま棚に積まれていた。
上田はよく言っていた。

「合わんクツは、売らん」

「合わんクツ売ったら、
 クツを作った人の心をムダにする。
 クツの機能もムダになる。
 買った選手は練習がムダになる。
 クツも限りある地球の資源でできている。
 地球の資源をムダにはできん。
 だから、合わんクツは売らん」

上田は厳しかった。
選手は挨拶をしないと店の中に入れてもらえなかった。
若者たちはいつも、店の前で姿勢を正し、服装を整え、緊張しながら店の引き戸を開かなければならなかった。

上田は優しかった。
熱心に競技に取り組む選手には励ましを惜しまなかった。
「これまでの自分」を乗り越えて成長する若者を愛した。
若者たちは自己記録を更新すると勇んで上田に報告した。
上田は、なによりも喜んだ。

「そうか。がんばったんやな。
 ほんなら、次のアンタのクツはこれや」

そうやってようやく、選手たちは憧れのシューズを手にすることができた。

オリンピアサンワーズの創業者は、時に選手以上に選手の能力を伸ばすことに「貪欲」だった。だからこそ、シューズ選びには徹して「わがまま」だった。


二代目店主の覚悟

1986年。
上田はこの世を去った。
62歳だった。
オリンピアサンワーズは、川見充子(かわみ・あつこ)が二代目店主として引き継いだ。

時代はバブル景気に浮かれはじめていた。
日本中にはモノが溢(あふ)れ、札束が舞っていた。
商品は無限に生産され、消費されていくように思えた。
スポーツ業界も、大型店舗の展開や出店数の拡大等々、景気のいい話でもちきりだった。

その中で。
オリンピアサンワーズは、相変わらず小さな店のままだった。
商売のスタイルも創業者の時代と何も変わらなかった。
商品はやはり、すべて箱に入ったままで棚に積まれていた。
創業者がそうしてきたように、二代目も、選手のシューズは自らが選んだ。
バブル時代のあおりを受け初代店舗に立ち退き問題が勃発。1991年に裁判で勝利し2代目店舗に移転。

そんなやり方に、店に来たある営業マンが皮肉った。
「社長、もっと儲けましょうや。
 商売の十か条を教えましょか」

二代目は、腹立たしく思いながらも、苦笑してやりすごした。

札束を見せびらかせながら、ある客は言った。
「どんなんでもかまへん。
 珍しいシューズを売ってくれ。
 なんぼでもかまへん。
 お金やったらあるで」

二代目は言った。

「お客様の使用目的がわからないと、
 シューズは売れません」

その客はあっけにとられて帰っていった。
二代目は、創業者の心を引き継ぐことしか考えていなかった。


「これからは、足にクツを合わせる時代だ」

1994年。
オリンピアサンワーズに妙な機械が置かれることになった。
その機械で人の足型を測定すると、足型そのままのインソール(靴の中敷)が作れるのだという。
画期的なアムフィットシステム。写真は1994年のアシックスのカタログから。

人の足は、それぞれにまったく違うかたちをしている。
つまり、顔のように、足にも個性がある。
その人の足のかたちに合うように、オーダーメイドでインソールを作ることができれば、これまでにない足とシューズとのフィット感が得られるだろう。
そうなれば、選手はもっと競技能力を伸ばすことができるだろう。

二代目は考えた。

創業者の時代、シューズはまだ品質も悪く、種類も乏(とぼ)しかった。
「合わんクツは売らん」
とはいえ、限られた選択肢から、目の前の「ひとり」に合った「1足」を選び出すのは、苦労も多かったにちがいない。
そんな時代に比べると、今や、シューズの品質は格段にあがり、選択肢も豊富になっていた。
オーダメイドのインソールを活用すれば、目の前の「ひとり」に合った「1足」をより高度なかたちで提供できるのではないか。

「クツに足を合わせる時代は終わった。
 これからは、足にクツを合わせる時代だ」


ひたすらインソールを試作した「地獄の5年」。

その機械はいとも簡単に人の足型をインソールの上に再現した。
これで、足とインソールは間違いなくフィットした。

だが、大きな問題が立ちはだかった。

足のかたちが人それぞれに違うように、シューズのかたちも、シューズによってそれぞれ違うのだ。インソールとシューズもフィットしなければ、意味がない。

足とインソールとシューズ。
この3つをフィットさせるのは想像以上に困難だった。

「どうすれば、すべてがフィットするのか?」

その答えは、誰も持ち合わせていなかった。
二代目はただひとり、研究を続けた。
閉店後、店の片隅でひたすらインソールを試作した。
いろんな加工を施し、自分で使用し、カラダで感じた。
わざとムリな加工に仕上げて、足を痛めたこともあった。

そんなことを続けて、気がつけば5年の歳月が流れていた。

「オーダーメイドのシューズのように
 既製のシューズを
 足にピッタリとフィットさせたい」

二代目は、シューズのはき心地に対して「貪欲」だった。
足とシューズとのフィッティングに、どこまでも「わがまま」だった。



どこにもない「シュー・フィッティングの専門店」へ

2000年。
オリンピアサンワーズは、オーダーメイドインソール・アムフィットを活用したシューズのフィッティングを本格的に開始した。

「もっと歩きたい」
「もっと走りたい」
「もっとパフォーマンスを向上させたい」

お客様の「もっと」を実現するために、「ひとり」の足と、「1足」のシューズを、「貪欲」に、「わがまま」に、フィッティングしつづける。
その積み重ねの中で、オリンピアサンワーズのシュー・フィッティング技術は、日本でも類例のない独自の進化を遂げはじめた。

噂を聞いて、陸上競技の選手だけではなく、他のあらゆるスポーツ選手たちがやってきた。
初心者ランナーもエリート・ランナーもやってきた。
仕事で足が疲れるというビジネスマンも、足のトラブルで困っているという女性もやってきた。
やっと歩きはじめた赤ん坊も、健康のために歩きたい中高年のご夫婦も、歩くことをあきらめない80歳のおばあちゃんもやってきた。
いつの間にか、オリンピアサンワーズには、日本中からいろんな人がやってくるようになった。
2005年、新店舗へ移転。念願だったインソール工房を設置した。

オリンピアサンワーズの原点は陸上競技だ。
「走る」「跳ぶ」「投げる」。
この動きのなかに、あらゆるスポーツのエッセンス(本質)がある。
そのエッセンスをさらに掘り下げていくと、「立つ」「歩く」という最もシンプルな行為にたどり着く。
今、オリンピアサンワーズが、いろんな人のシューズをフィッティングできるのは、創業から一貫して陸上競技を追求してきたからだ。

今もオリンピアサンワーズの「核」は「陸上競技」である。
しかし、お店の形態はもはや、「陸上競技専門店」という枠にはおさまらなくなった。
では、何屋さんなのか?
「スポーツ店」?
「クツ屋さん」?
「中敷屋さん」?
現在のオリンピアサンワーズを言い表すには、どれもがあてはまるけれど、どれもが物足りない。

2005年。
オリンピアサンワーズは現店舗に移転、リニューアルされた。
それをきっかけに、日本のどこにもない、このユニークな店の形態をこんな風に表現してみた。

「歩く・走る・生きるをプロデュースするシュー・フィッティングの専門店」。


オリンピアサンワーズは、これからもわがままである。

2018年。
オリンピアサンワーズは、相変わらず小さな店のままである。
そして、シューズはやはり、箱に入ったまま棚に積まれている。

オリンピアサンワーズは、55年間わがままだった。 

そして、これからも、
きっと、ずっと、もっと、
貪欲」で「わがまま」でありたいと思います。

オリンピアサンワーズ 一同より




(おわりです。そして、またはじまりです。)

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