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オリンピアサンワーズの歴史をインスタグラムとフェイスブックで紹介してます。

1964東京五輪の記念品

オリンピアサンワーズ57周年

みなさん、こんにちは。
2020年9月8日でオリンピアサンワーズは創業57周年を迎えました。

「57周年」って中途半端な数字ですけども、記念にオリンピアサンワーズの歴史を紹介する投稿連載を、当店のインスタグラムFacebookで、9月8日からはじめてみました。

インスタグラム↓


当初は、1963年の創業から現在にいたる57年の歴史を、3回ほどの投稿で「サラッ」と「カンタン」に紹介する予定でした。

しかし、いざはじめてみると、書いておきたいことがいっぱい出てくる。

結局、上田喜代子がオリンピアサンワーズを創業した1963年から、川見あつこが二代目店主を継いだ1986年までの23年間の話だけで、12回の投稿と1か月の時間を費やすことになりました。

うわ、あと34年分の歴史が残ってる!こりゃ、サラッとカンタンには終わらへんわ!

ってことで、今回の投稿はひとまず終了。

二代目・川見店主からはじまるオリンピアサンワーズの新しい歴史は、またの機会に(いつ?)ご紹介できたらと思っています。


初代と二代目の交代劇

今回の投稿連載では、これまで公にしなかった、上田と川見との「店主交代劇」にも触れました。

ひとりの客が、他人の店を継ぐというのは、とても珍しいことです。しかも、その客は教員を辞めてまで二代目を継いだっていうんですから、「なんでまた!?」って誰もが疑問に思いますよね?

この「魂の継承」とも呼べる交代劇には、上田と川見との間に、ふたりだけにしか感じ合えない「何か」があったのでしょう。

上田は、ある時、ある人に、こんな風に聞かれたそうです。

「上田さんは川見さんにとても厳しいけど、あの人を一体どうしたいんですか?」

上田はこたえたそうです。

「あの子とは、腐れ縁や」


ブログでも紹介します。

昨今、個人も企業も、情報発信にはSNSを利用することが多いですよね。発信する側も手軽だし、読み手もフォローしとけば、情報の方からやって来てくれるので話が早い。

そんなSNSに比べて、ブログには「読みに行く」という手間がかかります。

でも、SNSの投稿って、流し読みっていうか、眺めるだけになっちゃいませんか?SNSは、「情報」の速報性はあっても、「物語」を伝えるには不向きな感じがします。まとまった文章を発信するのはブログの方がまだ適しているかな、と思います。

つーわけで、後追いになりますが、当ブログでも、インスタに投稿した「オリンピアサンワーズの歴史」12回分を、次回からご紹介していきたいと思います。

何卒宜しくお願い致します。


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