【陸上競技】新谷仁美選手の走りは、なぜこんなにも力強いのか?~日本選手権大会・長距離種目を観戦した話(その2)

マスク越しのモグモグタイム

女子5000mは田中希美選手が優勝し、東京五輪代表の内定を決めた。
その勝負の余韻がまだ、会場を覆っている。

この日、川見店主と一緒に試合を観戦したのは、ボクと、Oさんと、Yさんと、Tさんだった。
5人は、第1コーナー上のスタンドに席をとった。
フィニッシュラインを斜め上から見下ろすとともに、トラック全体を見渡せるいい場所だった。

「いやぁ、田中選手はすごかったですねぇ」
「いいレースを観れましたねぇ」

そんなことを、皆がマスク越しに言い合った。

陽はすでに傾き、夕暮れの空が暗がりの度を増していく。
スタジアムのライトが点灯し、トラックを照らしている。

今大会では、感染防止対策として、来場者はみな密にならないように、両隣の席をひとつずつ空けて座ることを大会側から求められた。
12月の冷たい風がスタンドを回旋し、吹きつけてくる。
身を寄せ合うことがない分、寒さがよけいに体に沁みた。

川見店主は、みんなのために差し入れを用意していた。
手作りのコロッケサンドと、魔法瓶に入れたあったかいコーヒー。

「じゃあ、我々はモグモグタイムといきましょう」

皆でコロッケサンドに舌鼓を打ち、コーヒーで冷えた体をあたためていると、女子10000mのレースがはじまった。

新谷仁美選手の10000m

女子10000m決勝。

入場ゲートから真っ先にトラックへ駆け出してきた女子選手がいた。
観衆の視線はすべて、彼女に集まった。

新谷仁美選手。

無駄なものは何もかもそぎ落とされた、針金のように細い体。
誰よりも日焼けした褐色の肌。
その姿に、彼女が費やしてきたトレーニングの過酷さを想像する。
この一年、彼女は一体どれだけ自分を追い込んできたのだろう?

今年、彼女の好調ぶりは、大きなニュースだった。
1月にアメリカで行われたハーフマラソンでは日本記録を更新。
10月18日のプリセンス駅伝と、11月22日のクィーンズ駅伝では、いずれも区間記録を1分以上も更新する、ぶっちぎりの走りを見せた。
しかも、クィーンズ駅伝で走った3区の10kmの通過タイムは、なんとトラックでの女子10000mの日本記録(当時)を上回っていたのだ。

「新谷仁美、異次元の走り」

マスコミがそんな風にはやし立てたのは、誇張でもなんでもなかった。
誰から見ても、現在の彼女の強さは圧倒的で、驚異的で、超人的だった。

しかし、新谷選手本人は、この試合の前日の会見でこんな言葉を口にしていた。

「恐怖が年々増している」
「どうなるかというのは正直私にも分からないので、今は恐怖でいっぱい」

今、彼女はスタートラインに向って歩いている。
右手で拳をつくり、自分の胸を、どんどんと何度も叩いている。
その表情が大型ビジョンに映し出された。
今にも泣きだしそうな顔だった。
悲愴で、憔悴しているほどに見えた。
目を閉じ、祈るように胸の前で両手を握りしめた。
呼吸に合わせて肩は上下に大きく揺れていた。

うわ、大丈夫かなこの人。過呼吸で倒れちゃうんじゃないか?

17時15分。
レースがスタートした。

それから。

観衆は彼女だけを見つめていた。
時間は彼女のために刻まれた。
世界は彼女のために回っていた。

そして、30分と20秒が経った頃。
日本陸上競技界の風景は、まったく変わっていた。

女子10000m日本新記録30分20秒44の衝撃レース↓
※「YouTubeで見る」のリンク先で視聴できます。

新谷選手に感じる強さ

先の女子5000mで優勝した田中希美選手
その走りに感じる強さは、「失うものなど何もない」という若さであり、未来であり、可能性だった。

しかし、新谷仁美選手の走りに感じる強さは、田中選手のそれとは異なる。
新谷選手は、世界大会やオリンピックへの出場を果たした後、2014-2018年の5年間、競技生活を引退している。
つまり、彼女は一度、自らの意思で、競技における若さも、未来も、可能性も、「すべてを失った」のだ。

2018年の復帰後、彼女は失ったもの「以上」のものを取り戻さなければならなかった。
そうでなければ、引退した意味さえ失われてしまう。
彼女はもう、選手である以上、過去も未来も、「何も失うことができない」のだ。

試合前の会見では、彼女はこんなことも言っていた。

「東京五輪の選考会ではあるんですが、私にとって東京五輪があろうがなかろうが、試合でのミスは一切許されないと決めている」

また、レース後のインタビューでは、しきりに、社会に対するアスリートの存在を問う発言を繰り返した(レースの動画を最後までみてほしい)。

今、彼女は、アスリートとしての、ひとりの大人としての、責任を背負って走っている。
それは、とても、とても、強いことなのだと思う。

(おわり)

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